京都で活躍した新撰組、その始まりの地は江戸だった?!

新撰組といえば池田屋事件をはじめ「京都」というイメージを抱く方が多いかと思われますが、実は新撰組のルーツは江戸(今の東京)です。

新撰組という部隊が本格的に結成されたのは京都の壬生ですが、その時の隊士達の多くが江戸出身です。

ここでは、江戸で隊士たちが集まり、彼らが京都へ上るまでの経緯についてご紹介します。

試衛館(しえいかん)に集った若者たち

試衛館(しえいかん)とは、後の新撰組京区長・近藤勇の養父である天然理心流の3代目近藤周助が創設した剣術道場です。

文久元年(1861年)に近藤勇が4代目宗家を襲名、道場主となりました。

この道場の門弟として、土方歳三・沖田総司・山南敬助・井上源次郎らがいました。

また、食客として永倉新八・原田左之助・藤堂平助・斎藤一らも共に剣術の稽古をしていました。

この試衛館は現在の新宿区市谷柳町にあり、近藤勇の住居も兼ねており、ここで後の新撰組の隊士達は交流を深めていったとされています。

近藤勇が4代目宗家を襲名した記念に行われた紅白野試合で、土方歳三が紅組の大将を務めたという逸話も残っています。

新撰組隊士達の多くは江戸出身だった

当時の江戸には200以上の道場があったといわれていますが、人気の中心は「三大道場」といわれていた「練兵館」「士学館」「玄武館」でした。

その中でも近藤勇の試衛館は多摩の田舎剣法扱いで、剣法とされるならまだましで、無名で存在感のない道場でしたが、近藤周助や近藤勇はそんなことを気にかけていなかったと伝えられています。

その理由としては、その頃の道場では竹刀を使って軽く打ち合うだけのようなものが主流となっており、実戦とはかけ離れた剣法だったのです。

試衛館での現実的・実践的な剣法は、剣術を本気で学びたい者たちにとって魅力的だったので、徐々に試衛館にも人材が集まるようになってきました。

また、試衛館は明るい雰囲気で来る者は拒まずの体制だったので、食客、言い方を変えれば居候も増えて活気があったとされています。

そこに後の新撰組で剣をふるう隊士達が集まっていたのです。

東京出身の主な新撰組隊士

近藤勇・土方歳三は武蔵国多摩郡石田(現在の東京都日野市石田)の生まれです。

沖田総司は江戸の白河藩屋敷(現在の東京都港区西麻布)で生まれたとされていますが、実家については日野在住の宮原家の出身ともいわれています。

永倉新八は、江戸下谷三味線堀(現在の東京都台東区小島)で生まれました。

他の隊士については生年や出自に関して不明な部分が多いのですが、現在の東京都の多摩地区が新撰組の始まりの地といっても過言ではないと考えられます。

江戸の試衛館に集った若者たちが共に京都へ行き、壬生浪士組を経て新撰組を結成し、京都の治安維持に尽力したのです。

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