幕末を駆け抜けた新撰組も、明治維新という大きな時代の流れには勝てずに終焉を迎えました。
ここでは新撰組の最後の戦い、そして最後の局長についてご紹介します。
新撰組としての最後の戦い
新撰組は江戸で集結し、幕府警護のために京都へ向かった浪士隊の中で、京都に残留した隊士達が後に新撰組になりました。
新撰組の主な任務は、京都で活動中の不逞浪士の捜索・捕縛、そして治安維持のための巡察や警備でした。
小説やドラマなどの影響で、新撰組は「人斬りの集団」のイメージが強くなってしまいましたが、本来は捕縛することが目的であって、それができない場合のみ斬ったとされています。
有名な池田屋事件でも、初めは踏み込んだ新撰組隊士よりも敵の人数が上回ったことから斬り捨てる方針でしたが、土方歳三ら援軍が到着してからは捕縛する方針に変えています。
慶応3年(1867年)10月に、第15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行い、新政府軍と旧幕府軍との間で戊辰戦争が勃発します。
新撰組は旧幕府軍に属し、鳥羽・伏見の戦いに参加しますが敗北、その後新撰組は「甲陽鎮撫隊」と名前を改めさせられて甲州へ向かうことになりました。
呼び名が「甲州鎮撫隊」となった後も、新撰組隊士達は「新撰組」の名を背負って活動していました。
その後新撰組は、宇都宮・会津戦争などに参加することになりますが、そこでも敗北、土方歳三は蝦夷へ向かって最終決戦に臨むことになります。
その頃にはすでに、局長である近藤勇は斬首され、副長の土方歳三の下には新撰組の最盛期のころからの隊士はほとんど残っていませんでした。
土方歳三は蝦夷へ渡って、榎本武揚らと「蝦夷共和国」を樹立、そこで新撰組最後となる「函館新撰組」を名乗りました。
新政府の総攻撃によって土方歳三は被弾し戦死、そして新撰組は降伏します。
これが新撰組最後の戦いとなりました。
新撰組、最後の局長
新撰組の初代局長は、芹沢鴨・新見錦そして近藤勇でした。
筆頭局長は芹沢鴨でしたが、実は芹沢鴨が筆頭局長だったのは新撰組の前身である壬生浪士隊の時代です。
そして芹沢鴨と新見錦は、近藤勇らによって粛清されてしまい、近藤勇一人が局長になりました。
なので、正確には新撰組局長というのは、近藤勇ただ一人ということになります。
近藤勇は、戊辰戦争の最中に流山の地で捕縛され斬首となりますが、新撰組はその時点で解散にはならず、実質的には土方歳三が指揮をとっていました。
しかし土方歳三は最期まで「局長」を名乗りませんでした。
これは、土方歳三の中で「新撰組の局長は近藤勇ただ一人」という思いがあったのではないかと推測されるのです。
函館で結成した「函館新撰組」でも、土方歳三は最後まで「総督」として指揮をとり銃弾に斃れました。