新撰組といえば、活躍の場は京都が有名です。
しかし、隊士達は任務で大阪へ行くこともあり、現在でもゆかりの地が残っています。
ここでは、大阪での新撰組ゆかりの地をご紹介します。
新撰組大阪屯所・萬福寺
慶応元年(1865年)、将軍・徳川家茂が大阪入りすることで、多くの幕臣たちが将軍警護と大阪の治安維持のために大阪入りしました。
この時に新撰組が屯所(宿泊所)として割り当てられたのが、現在の大阪市天王寺区下寺町にある萬福寺です。
ちなみにこの時に会津藩は、同じ大阪市天王寺区にある一心寺に駐屯しました。
萬福寺には、現在でも「新撰組 大阪旅宿跡」という石碑がたっており、そして石に書かれた説明書きもあります。
そして山門は、享保年間に作られたものということで、この門を新撰組隊士たちも通ったと思われます。
庫裏も当時のまま残っており、新撰組の提灯が置かれていた棚が現存します。
本堂では七番隊組長の谷三十郎ら約30名が寝起きしていました。
また、記録に残っているのは六番隊組長・井上源十郎、九番隊組長、鈴木樹三郎などが滞在したとされ、また沖田総司も故郷へ出した手紙の内容から萬福寺の屯所に滞在していた可能性が高いとされています。
大阪市内にはもう一か所、京屋という船宿も新撰組の定宿となっていました。
子母澤寛や司馬遼太郎などの小説でも、新撰組の定宿として京屋の名が登場します。
ぜんざい屋事件
ぜんざい屋事件とは、慶応元年に土佐勤王党の残党の大坂城乗っ取り計画を新選組が察知して、浪士を襲撃した事件です。
土佐藩を脱藩した土佐浪士たちは大阪に身を潜め、土佐勤王党の残党である大利鼎吉や田中光顕らは、大阪南瓦町でぜんざい屋「石蔵屋」を営む石蔵屋政右衛門とともに、大阪市街を炎上させその混乱に乗じて大阪城を乗っ取るという計画をたてました。
土佐勤王党の残党は、このぜんざい屋「石蔵屋」を根城にしていたのです。
その情報を察知した新撰組隊士谷万太郎・谷三十郎、正木直太郎・阿部十郎の4人は石蔵屋を襲撃しますが、土佐勤王党メンバーはほとんどおらず、一時間あまりの戦闘の末大利鼎吉一人だけを討ち取ることができました。
他の者は襲撃を知り大阪以外の地に逃亡し、この襲撃で大阪大火を防ぐことができたと、新撰組の評価が上がったとされています。
しかしこの襲撃時に、町奉行の同心に応援を頼んだにもかかわらず、壬生の新撰組本体に事前通告していなかったことで、功を狙った抜け駆けの襲撃だったともいわれています。
その時の新撰組大阪屯所隊長の谷万太郎は、4人がかりで一人しか討ち取れなかったことを、後に土方歳三に激しく叱責されたという逸話も残っています。
このぜんざい屋の跡に、現在でも「大利鼎吉遭難の地」という石碑がたっており、大阪での数少ない新撰組ゆかりの地となっています。