新撰組と京都守護職との決定的な違いとは?

「新撰組」と「京都守護職」は共に京都の治安維持に努め、幕府を警護する職です。

しかしこの二つの組織には決定的な違いがあります。

ここでは「新撰組」と「京都守護職」との違いをご説明します。

京都守護職とは

京都守護職とは、幕末の文久2年(1862年)に設けられた江戸幕府の役職です。

幕府の権威の低下で、京都は諸国からの尊王攘夷志士のテロ活動によってに治安が乱れていました。

京都所司代や京都町奉行所が京都の治安維持に努めていましたが、尊王攘夷志士たちの要人暗殺や商家への押し込み強盗などが頻発し、所司代や奉行所だけでは防ぎきれなくなってしまいます。

そこで幕府は、京都市中の治安の維持・御所の警備などにあたる役割として京都守護職を設置しました。

京都守護職には会津藩主・松平容保が就任し、金戒光明寺に本陣を置き、藩兵1000人を京都に常駐させました。

京都守護職と新撰組との関係性

京都守護職は、京都所司代・京都町奉行そして京都見廻り役を傘下に置き、京都の治安維持に努めました。

しかし、所司代・町奉行そして会津藩士だけでは手が回らなくなったために、守護職預かりとして新撰組を非正規部隊として雇うことにしたのです。

新撰組は京都守護職である会津藩主・松平容保の直属の、民間から集めた部隊ということになります。

新撰組は京都の治安維持や不貞浪士に対する活躍を見せ、最強の剣客集団として勇名をはせるようになりました。

そして池田屋事件での働きによって、新撰組は正式に幕府召し抱えの直参になりました。

局長である近藤勇は、幼いころからの夢であった「本物の武士」となることができ、重要な会議にも参加するようになりました。

京都見廻り組と新撰組、正規と非正規

池田屋事件で新撰組が幕府直参となる以前は、京都守護職の下で働いた「京都見廻り組」と「新撰組」では、待遇に大きな違いがありました。

まず京都見廻り組は、旗本の子弟で構成された、言ってみればキャリア組です。

そして新撰組は、浪人や農民が武士になるために参加した浪士組から生まれた集団で、ノンキャリア組と言えます。

京都見廻り組は今でいう公務員として衣食住を保障されていましたが、新撰組は基本自腹で民間に間借りして暮らしていかなければならない状況でした。

そういった経緯から、新撰組は幕府の管轄外の仕事、いわば汚れ役をかっていたと思われます。

新撰組は実力重視の剣客集団だったことから、旗本の子弟というだけで雇われた者が多い京都見廻り組よりも実績を残しました。

京都見廻り組と新撰組は、京都守護職の下で同じ仕事を仰せつかってはいましたが、待遇は天と地の差があったものと考えられます。