新撰組に女隊士が存在した?!幕末を生きた女剣士とは?

小説や漫画の世界では、新撰組の中に女剣士がいたというストーリーが展開されているものもあります。

フィクションとして面白い設定ですが、本当にいたのではないか?という興味深い説も存在します。

ここでは、新撰組に女剣士が本当にいたのかについてご説明します。

中沢琴という女性

中沢琴という女性は、幕末に「浪士隊」に参加して江戸市中の見回りを担って治安維持にあたった女剣士と伝えられています。

中沢琴は群馬県利根郡の生まれで、父が剣術道場を営んでいたことで幼いころから剣術を学び、特に薙刀に長けていたとされています。

また、身長はその時代の女性ではかなりの長身で170㎝近くあり、面長で目鼻立ちの整った女性でした。

男装すると女性から言い寄られることもあったという逸話も残っています。

文久3年(1863年)第14代将軍・徳川家茂が京都に上洛するのに伴ってその護衛のために江戸で浪士隊の募集がありました。

そしてその浪士隊の中にいたのが近藤勇ら後の新撰組隊士達、そしてその中には中沢琴の兄である中沢良之助が加わっていました。

実は、中沢良之助の名前は浪士隊の名簿に実際に記載されていますが、中沢琴の名が名簿に載っていません。

非公式に浪士隊と共に上洛したのか、それとも女性だったから名簿から外されたのか不明ですが、江戸で警護を行ったという中沢琴の名前がいくつかの文献に残されています。

新撰組と中沢琴の関係

上洛した浪士は思想の違いなどから分裂し、江戸へ引き返した浪士たちによって「新徴組」が結成され江戸市中の警護・見回りを勤めました。

上洛した浪士隊がそのまま新撰組になったとするのは間違いで、浪士隊が京都に残留して「壬生浪士隊」となり、その中の芹沢鴨・近藤勇が立ち上げたのが「新撰組」です。

中沢琴とその兄は京都には残留せず、江戸に戻って「新徴組」に属し、江戸の警護にあたりました。

なので、女剣士・中沢琴は新撰組に属してはいないものの、後に新撰組で活躍する隊士達と共に京都へ向かった、という話には信憑性があるものと思われます。

女剣士・中沢琴の活躍、そしてその後

新徴組での給金が少なかったことで江戸の商家を襲う隊士が出る者もいたため、新徴組は1864年に庄内藩の預かりとなります。

新徴組の隊士が1868年(慶応4年)、品川の江戸薩摩藩邸の焼き討ち事件を引き起こし、この事件がきっかけとなって戊辰戦争へと進んだといわれています。

中沢琴もこの焼き討ちに参加し、足にけがを負ったと文献に残っています。

その後中沢琴は庄内で新政府軍相手に戦い、官軍数十人に囲まれても勇敢に的中突破をしたなどの武勇伝が残っています。

鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に歯向かった中沢琴でしたが、薩摩藩の西郷隆盛の意向によって庄内藩の処分は軽く済み、その後中沢琴は兄と共に故郷の利根に戻りました。

中沢琴はこの時点で30歳過ぎと思われます。

中沢琴は利根に戻った折に男装をやめましたが、その後も剣術の稽古は欠かさなかったといわれています。

容姿端麗であったことからたくさんの求婚がありましたが、中沢琴は自分よりも強い者としか結婚しないとして剣術の試合を行いました。

結局、中沢琴に勝てる男性はおらず、88歳前後で亡くなるまで独身を貫き、お酒を飲んで剣舞を披露したなどの逸話も伝えられています。

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