新撰組が活躍したころ、日本ではすでに「眼鏡」は一般に使われていました。
ここでは新撰組隊士の中で眼鏡をかけていたとされる人物と、幕末のころにどんな眼鏡が普及していたのかについてご紹介します。
幕末の眼鏡事情
日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師・フランシスコザビエル、彼が日本に初めて眼鏡を伝えた人物です。
キリスト教布教のために来日したフランシスコザビエルが、周防の国(現在の山口県)を拠点にしようと、許可を得るために国主である大内義隆に13種類の貴重品をプレゼントしました。
そのプレゼントのうちの一つが眼鏡で、これが日本最古の眼鏡といわれていますが、残念ながら現存はしていません。
その頃の眼鏡は現在普通に使われているような形のものではなく、「つるなし」でした。
ただし、フレームは素材やデザインに様々な意匠がが凝らされていたと伝えられています。
日本橋にある「村田眼鏡舗」は創業1615年とされており、江戸初期から眼鏡は一般に販売されていたと考えられます。
江戸時代初期に徳川家康も眼鏡を使用していたという記述もあることから、江戸から明治にかけての幕末のころには、眼鏡はかなり普及していたとされています。
しかし、あくまで高価なものでしたので、下級の武士や庶民にまでは普及しておらず、上級武士や金持ちの商人たちが使用していました。
眼鏡をかけた新撰組隊士はいたのか?
新撰組は一般庶民の出という隊士達がほとんどです。
そこから考えると、新撰組隊士たちの中で本当に眼鏡をかけた人物がいたという可能性は限りなく低くなります。
また、現在残っている隊士たちの写真や肖像画、そして文献でも、眼鏡をかけた隊士の姿は確認されていません。
新撰組は旧政府軍に属しましたが、敵である新政府軍(官軍)の中には、眼鏡を使用するほどの官位の人物がいた可能性はあります。
現に眼鏡をかけた写真や肖像画が残されている新政府の官僚の写真や肖像画は多く見受けられます。
眼鏡は知性の象徴?
新撰組をモチーフにした映画や小説、そしてアニメやゲームはたくさん存在します。
その中で注目したいのは、新撰組隊士・山南敬助が眼鏡をかけた姿で登場する作品が複数あることです。
山南敬助は、近藤勇や土方歳三と共に京都に上り新撰組を結成しました。
ところが山南敬助は、思想的な違いから近藤勇や土方歳三と袂を分かつことになります。
山南敬助は尊王攘夷思想であり、新撰組の目的である「幕府の守護」とは相いれない部分がありました。
そのため隊務に参加しないこともあり、池田屋事件の時にも出勤していないのです。
結局山南敬助は隊を脱走し、後に隊規違反で切腹させられるのですが、そこには山南敬助には自分の中にしっかりとした思想があったのではないかと考えられます。
他の隊士たちのようにただ突っ走ることなく、確固たる思想を貫いた山南敬助は、新撰組の中でも知性派として描きやすかったのではないかと考えられます。
また新撰組の軍師的存在で甲州流軍学を修めた武田観柳斎も、フィクションの世界では眼鏡をかけて登場することが多くなっています。