伊勢津藩主ご落胤説のある藤堂平助の死因と最後と墓の場所

新撰組八番隊組長・藤堂平助は、活躍した期間が5年ほどだったにも拘らず、新撰組に様々な功績を残した人物です。

ここでは藤堂平助の生涯や死因・最期、そして墓所などをご紹介します。

旗本ご落胤説を残す藤堂平助

藤堂平助は、天保15年(1844年)武蔵国で誕生、その後江戸で育ったとされています。

藤堂平助の出自に関しては諸説ありますが、旗本5000石伊勢津藩主・藤堂高猷の落胤(今でいう私生児)という説が有力です。

藤堂平助は北辰一刀流開祖・千葉周作の門弟となり、10代半ばで北辰一刀流目録を取得、その後深川の北辰一刀流・伊東大蔵(後の伊東甲子太郎)の道場にも出入りし、後に近藤勇の天然理心流・試衛館道場に入門します。

藤堂平助は試衛館時代からの新撰組同志であり、斎藤一と共に最年少幹部のうちの一人で、年少ながら副長助勤・八番隊隊長などの重職につくほどの実力者だったとされています。

池田屋事件での激闘の中、額(眉間とも)を斬られ昏倒し、一時は危険な状態に陥りましたが、ほどなくして戦闘に復帰しています。

元治元年(1864年)新撰組は江戸で隊士を募集しましたが、その際にかつての師匠である伊東甲子太郎をスカウトしたのは藤堂平助でした。

そしてその後、伊東甲子太郎が近藤勇らと意見を異にして「御陵衛士」を創設し新撰組を脱退した時に、藤堂平助はそれに従い新撰組を抜けます。

伊東甲子太郎が新撰組によって暗殺された「油小路事件」、伊東甲子太郎の遺体を奪回しようと現場に向かった藤堂平助は、そこで死闘の末戦死しました。

享年23年、小柄で実年齢より幼く見えた藤堂平助は、容姿端麗であったと伝わっています。

藤堂平助の死因、そして墓所はどこに?

藤堂平助の死因は、油小路で新撰組隊士によって斬られ、即死であったとされています。

新撰組・永倉新八は、試衛館時代からの仲間であった藤堂平助を助けるように、近藤勇から指示を受けており、永倉新八自身も藤堂平助を斬りたくありませんでした。

そして永倉新八は、藤堂平助が逃げられるように道を開けましたが、近藤勇の指示を知らない若い隊士が、藤堂平助を斬ってしまいます。

また、藤堂平助は永倉新八の深意を汲み取りましたが、同志を見捨てることを良しとせず最期まで戦ったとも、後ろから斬りかかられて「背中の傷は武士の恥」として最期まで応戦したという説も残っています。

藤堂平助は、全身に大小大きの傷を負い、刀を握ったまま亡くなりました。

藤堂平助の遺体は、油小路の変で共に亡くなった伊東甲子太郎らの遺体と共に、新撰組の手によって壬生の光縁寺に埋葬されました。

そしてその後明治に入ってから、御陵衛士の残党が、光縁寺から戒光寺に改装し墓碑を建立しました。

現在でも藤堂平助の墓は、京都市東山区にある泉涌寺塔頭戒光寺にあり、御陵衛士として孝明天皇の御陵を守り続けています。