戊辰戦争の局地戦である会津戦争、新撰組の功績とは?

戊辰戦争とは、薩摩・長州・土佐藩らを中心にした新政府軍と、新撰組ら旧幕府勢力らが戦った、一連の戦闘のことを指します。

ここでは、その戊辰戦争の一つである会津戦争と、会津戦争における新撰組の功績についてご紹介します。

会津戦争とは

第9代目会津藩主であり京都守護職に就任していた松平容保は、新撰組を配下に置いて尊王攘夷の志士の取り締まりを強化していました。

しかし幕府軍が鳥羽・伏見の戦いで敗れ、松平容保は徳川慶喜と共に江戸へ退去・謹慎しました。

その後新政府への恭順を示すために会津に帰った松平容保でしたが。会津藩内では新政府への徹底抗戦の空気が濃厚でした。

また、東北の諸藩(仙台藩・米沢藩など)は、容保追討の命を受けたにも拘らず、会津赦免の嘆願をする一方奥羽越列藩同盟を結成し、新政府との戦闘に向けて動き出しました。

しかし新政府軍との戦闘に向けて、松平容保が農民に戦闘に加わるように命じたり、領民に対して重税を課したことなどで、会津の人々の士気はかなり低く、新政府軍に味方する者も増えていくという状況でした。

白河城を占拠され棚倉城も落城し、新政府軍は会津藩の藩兵の多くが白河口に出向いている隙をついて二本松城を攻撃しました。

その際、少年40名ほどで構成された二本松少年隊も全員戦死、城を守る旧幕府軍も数十人の戦死者を出して、この後の会津若松城の落城と合わせて、戊辰戦争の中でも一番の悲劇として伝えられています。

戊辰戦争(会津戦争)での新撰組の働きについて

幕府が天皇に政権を返した大政奉還の後、それまで京都を、そして幕府を守護していた新撰組の立場は、完全に賊軍となってしまいました。

思想の違いから袂を分かち御陵衛士となった元新撰組隊士たちとも敵対するようになり、局長である近藤勇を追撃するという事件まで起こりました。

そして局長である近藤勇は、戊辰戦争初期の鳥羽・伏見の戦いで肩を負傷しており、会津戦争には出撃することができず、大阪城で怪我の治療を受けていました。

近藤勇が前線から退いていた時に、近藤勇の代わりに新撰組の指揮をとったのは、副長である土方歳三でした。

会津戦争では、新撰組の斎藤一が大いに活躍しました。

会津の防衛の最前線である白河口の戦いで斎藤一は活躍して、会津藩家老・西郷頼母の下で一度は白河城を取り戻しましたが、最後には新政府軍の奇襲攻撃によって敗れてしまいました。

土方歳三は、先の壬生の戦いで足を負傷し、会津の戦いには遅れて参戦しました。

そして母成峠の戦いで最前線に出ましたが、またしても敗れてしまいます。

その時の怪我の療養中に、土方歳三は会津の少年隊である白虎隊と交流を交わしたとされています。

白虎隊とは、後の会津若松城(若松城・鶴ヶ島城・古くは黒川城)での戦いで敗れ、飯森山で自刃した悲劇の少年隊です。

白虎隊隊士たちにとって、土方歳三は憧れの存在であり、土方歳三も白虎隊の隊士やその家族にまで心遣いを見せたという逸話も残っています。

その後土方歳三は仙台へ向かいましたが援軍が送れない事態となり、榎本武揚と合流し蝦夷の地へ向かうことになりました。

そして戊辰戦争の最後の戦い、五稜郭の戦闘へと移っていくのです。

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