新撰組の構成や最大人数について

江戸末期、京都の街の治安を守った剣客集団・新撰組。

新撰組は知っているけれど、その基礎知識・構成や人数などは意外と知られていません。

ここでは新撰組の構成や最大人数について、詳しく解説します。

新撰組の構成

江戸で集まり上洛した「浪士隊」、そして京都郊外の壬生で結成された「壬生浪士隊」、そしてその後会津藩主・松平容保から「新撰組」と拝命された、新撰組はこのような流れで結成されました。

これは、新撰組と名付けられて再編成された時の新撰組の構成です。

途中から参加した隊士や途中で粛清された隊士もおり、構成については流動的になっていますが、おおよそこのような構成でした。

局長・近藤勇
副長・土方歳三
参謀・伊東甲子太郎
総長・山南敬助

一番隊組長・沖田総司
二番隊組長・永倉新八
三番隊組長・斎藤一
四番隊組長・松原忠司
五番隊組長・武田観柳斎
六番隊組長・井上源三郎
七番隊組長・谷三十郎
八番隊組長・藤堂平助
九番隊組長・鈴木三樹三郎
十番隊組長・原田左之助

監察方・山崎烝、以下7名
勘定役・河合耆三郎
伍長・島田魁 以下18名

その他、撃剣師範・柔術師範・砲術師範・馬術師範・文学師範がおり、この役は各組長との兼任になっています。

この構成図の中に、芹沢鴨や新見錦ら、水戸藩出身の隊士達の名がないのは、新撰組として動き始めた時にはすでに芹沢鴨らは粛清されてしまった後だからです。

新撰組の前身である壬生浪士組のころは、芹沢鴨・近藤勇・新見錦が局長を務めており、筆頭局長は芹沢鴨でした。

その頃の構成は、局長・副長・助勤・調役並監察・勘定役並小荷駄役になっていました。

新撰組の人数

新撰組は有名な割に、詳しい資料はほとんど残っていません。

後に子母澤寛が生存者に聞きまわったり、生存していた永倉新八の手記などを参考にして書簡を残しているのですが、記憶違いや忘れてしまったことなどがあるために、確証がないのが事実です。

また子母澤寛の創作ではないかと思われる場面もあることから、現在でも正しい新撰組研究は、まだまだ途中の状態です。

また、隊士の数もかなり流動的だったこともあり、新撰組の人数を把握するのは難しいのです。

ここでは、現在推測されている一般的な人数をご紹介します。

まず、江戸で浪士募集に集まったのは200名余りとされ、その人数が中山道を西上し、京都へ向かいました。

そして芹沢鴨ら水戸派、近藤勇ら試衛館派その他30名ほどが京都に残り、壬生浪士組(精忠浪士組とも)を結成しました。

新撰組の最大人数は約200人、これは1864年の池田屋事件・禁門の変参戦後のことになります。

途中から新撰組に参加した隊士や、亡くなった隊士・逃亡した隊士も併せると、総勢500名以上の人間が一時的にも新撰組に加わったとされています。