最後まで共に戦った土方歳三と榎本武揚の関係は?仲が良かった理由とは?

戊辰戦争の最期の地函館で共に戦った土方歳三と榎本武揚。

ここではこの二人の関係と、最後まで共に戦った理由についてご紹介します。

ナンバー2にこだわったとされる土方歳三

土方歳三は新撰組時代、鬼の副長として近藤勇を補佐するポジションにいました。

近藤勇の没後も、土方歳三は決してトップに立とうとせず、函館戦争では榎本武揚をリーダーとしてあくまで副長として戦い抜きました。

土方歳三は京都での鳥羽・伏見の戦いで敗れ、江戸そして勝沼での敗戦を経て会津戦争へ臨みましたが、その頃に局長の近藤勇は処刑され、沖田総司は病死してしまいました。

それまで京都では最強と謳われていた新撰組も、組織として機能しなくなったことを受けて、土方歳三は新しいリーダーと強い組織の必要性を感じたと思われます。

会津戦争で負けた土方歳三は仙台に向かい、一方榎本武揚も蝦夷地(今の北海道)開拓を目指して仙台に向かいました。

そしてそれが土方歳三と榎本武揚との出会いになります。

仙台で初対面の二人ではありましたが、新政府へ抵抗を続けているお互いの噂は耳に入っており意気投合、そして新政府打倒を誓いました。

蝦夷で新政権を起こした土方歳三と榎本武揚

新政府へ徹底抗戦することで手を組んだ土方歳三と榎本武揚は共に蝦夷の地へ向かいました。

蝦夷に上陸した土方歳三と榎本武揚そして旧幕府軍は函館に独立政府を打ち立てることを目指し、その開始を宣言しました。

その背景には、薩摩・長州の連立政権であった明治新政府の土台も完全に固まっていなかったということも考えられます。

土方歳三らが開始した新政府は、リーダーを選挙(公選入札)で決めるという、日本初の画期的な方法をとりました。

一番得票数が多かった榎本武揚が総裁となり、土方歳三は「函館市中取締役判局頭取」と「陸軍奉行並」という職を兼任することになりました。

それまでも榎本武揚は実質的にリーダーとして行動してきましたが、これで正式に総裁の立場となりました。

この選挙での土方歳三の得票率はかなり低く、本来ならナンバー2の座につくことができない立場でしたが、榎本武揚の強い希望と推挙によって土方歳三は榎本武揚に次ぐポジションについたとされています。

榎本武揚の土方歳三への信頼の篤さがうかがわれます。

その後の土方歳三と榎本武揚

一進一退の蝦夷地の戦いも、榎本武揚率いる旧幕府軍はじりじりと追い込まれていきました。

そして新政府軍の函館総攻撃の際に、土方歳三は銃弾に貫かれて戦死してしまいます。

その際に榎本武揚は「蝦夷共和国」の壊滅と土方歳三の戦死を受けて、一度は自決を決意しました。

しかし、近習の大塚霍之丞という人物が体を張って止めたという逸話が残っています。

勝ち目がなくなったと悟っての自決の決意ではありますが、榎本武揚は土方歳三の戦死に最も心を痛めたとも伝えられています。

土方歳三と榎本武揚は、性格はあまり似ていなかったといわれていますが、明治政府に対して最期まで徹底抗戦する、という思いが2人を深く結びつけたと思われます。