3カ所あるといわれる近藤勇の墓所 複数あるその理由とは?

新撰組の近藤勇は、新政府との戦いに敗れ斬首となりました。

その近藤勇の墓は3カ所にあります。

ここではその3カ所の墓所と、なぜ複数の墓所が存在するのかご説明します。

近藤勇の3つの墓所

まず、東京都三鷹市にある「龍源寺」が近藤勇の実家である宮川家の菩提寺であることから、近藤勇の墓所が存在しています。

近藤勇が斬首された翌々日、近藤勇の甥・近藤勇五郎ら門人併せて7人で、板橋に埋められた近藤勇の胴を掘り起こし、龍源寺に埋葬したと伝えられています。

その際は、板橋刑場の番人にお金を握らせて、人目の少ない夜の間に行われたとされています。

次に、会津若松市にある「天寧寺」の境内に、近藤勇の遺髪が埋葬されたとされる墓所があります。

このお墓は土方歳三が会津戦争の折に、ここに近藤勇の遺髪を仮埋葬したと伝えられています。

そして板橋の近藤勇墓所、これは明治9年に元新撰組・永倉新八や、近藤勇と交流の深かった医師・松本良順らによって、近藤勇と土方歳三の供養碑が建てられました。

この3つのお墓以外にも、荒川区・円通寺には、旧幕府軍兵士追悼の墓石があり、そこに近藤勇や土方歳三の名前が刻まれています。

また、愛知県岡崎にある法蔵寺の山腹にも近藤勇のものと伝わる首塚があります。

斬首後、京都三条で晒された首を同志たちが持ち帰り、近藤勇が生前慕っていた京都の誓願寺住職・義天和尚に託し、住職が転任した法蔵寺に運ばれたという話が残っています。

また他にも各地に「新撰組の墓碑」や「慰霊碑」などが建立されています。

なぜ近藤勇の墓が何ヶ所もあるのか?

これには、新撰組局長・近藤勇が「賊軍」として処刑されたという理由があります。

「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉がある通り、当時は賊軍として処刑された人々の亡骸は大切に扱われなかったのです。

その後政府の許可が出るまでは、墓所を作ることも供養することも禁じられていました。

前の項で上げたいくつかの墓所も、どれも秘密裏に行われ、また確証がないのも事実です。

なので、近藤勇の首と胴体が本当はどこに埋葬されたのかは公式な記録がないため、現在でも謎となっています。

近藤勇は最期まで武士として切腹を願い出ましたが、それもかなわず斬首されてしまいました。

一部には「近藤勇は命乞いをした」という話が伝わっていますが、これは一緒に捕縛された同士の命乞いをしただけで、自分の命乞いは一切しませんでした。

切腹を願い出て役人と言い争いになったことが、間違って自分の命乞いと伝わったのではないかと推測されます。

その時助けられた二人の隊士は、その後彰義隊に加わりそして仙台で土方歳三と再会し、その時に近藤勇の最期の様子を土方歳三に伝えたと考えられています。

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