新撰組の逸話の中で一番有名なのは池田屋事件ですが、実はこの池田屋事件は、近藤勇が長州藩を利用した事件だという説があります。
ここでは、池田屋事件の概要と、近藤勇が長州を利用したのではないかという説についてご紹介します。
新撰組を一躍有名にした池田屋事件
1864年、長州藩・土佐藩らの尊王攘夷の志士たちによって、将軍暗殺、京都市街地放火そして天皇誘拐などの計画がたてられました。
その会合が行われるという情報を得た新撰組・近藤勇らは、京都市中を探索し、6月5日の夜22時ごろ京都三条の旅館・池田屋で会合中の尊王攘夷志士たちを発見しました。
新撰組の近藤勇・沖田総司・永倉新八らが踏み込み、後から駆け付けた土方歳三らによって、何人もの尊王攘夷志士たちが斬られました。
この事件により、新撰組の名は世間に轟きました。
これが、池田屋事件の概要として小説などで一般的に知られているものです。
新撰組が幕府に認められる
この池田屋事件によって、新撰組は世間だけでなく幕府にも認められるようになりました。
これまで会津藩からだけ報奨金をもらっていた新撰組でしたが、この事件の功労によって、幕府から直々に報奨金が出るようになったのです。
国立公文書館内閣文庫に、会津藩主・松平容保が老中・水野忠精たち4名に、報奨金を頂いたお礼として出した手紙の写しが残っています。
この池田屋事件は、新撰組に対する幕府の扱いが激変したのみならず、明治維新に繋がる重要なターニングポイントとなりました。
池田屋事件で討幕派の重要で優秀な人物が亡くなったことにより明治維新が遅れたという説もありますが、この事件が反動となって倒幕を唱える者が増えて明治維新が早まったという説も見逃せません。
いずれも、この先の激動の明治維新に大きな影響を与えたということは間違いないといえます。
池田屋事件の発端は近藤勇の計画?
このように、池田屋事件後の新撰組は一躍有名になり報奨金もたくさん貰うようになりましたが、これこそが近藤勇の計画だった、という説があります。
近年の研究で、長州・土佐の志士たちの陰謀・謀議は新撰組による捏造であったというのです。
それには、これらの計画は幕府側の記録にだけ残されていて、長州や土佐の志士側の記録には暗殺などの謀議に関する記録は一切残っていなかったというのが一つの理由です。
これは2009年に発見された長州志士たちの調書によるもので、そこにはただ宴会をしていたという記述のみとなっています。
また、この日の新撰組の京都探索と池田屋襲撃は、松平容保らに事前に何も知らされておらず、近藤勇が独断で決行したものだともいわれています。
最終的に幕府側に有利な結果になったので、幕府は新撰組の手柄としたとも考えられるのです。
いずれも推測の域を出ませんが、現在でも新撰組の謎の一つとして研究が進んでいます。