近藤勇率いる新撰組といえば池田屋事件が一番有名ですが、小説や映画・ドラマなどではかなり脚色された部分が多く、史実とは違う部分が大きいと思われます。
ここではその池田屋事件の経緯を、史実に基づいてご紹介します。
池田屋事件が起こった経緯とは
幕末の京都は政局の中心だったことから、尊王攘夷派や勤王の政治思想を持った多数の浪士が活動していました。
その急先鋒であった長州藩は、先の八月十八日の政変で京を追われましたが、情報収集などの目的で京で潜伏活動を行っていました。
そして、長州・土佐藩ら尊王攘夷の志士たちは、御所放火・幕府要人暗殺などの計画を立てていたとされています。
この計画は、尊王攘夷の志士らを支援していた人物が捕らえられたことから発覚し、その会合が行われるという情報を得た近藤勇ら新撰組が市中を探索、そして池田屋で会合中の尊王攘夷志士を発見しました。
池田屋に踏み込んだ新撰組は数時間の乱闘の末、尊王攘夷派の志士たちに大打撃を与えたことで有名になりました。
その頃の時代背景と新撰組
この時代の日本は、ペリーが来航し開国を促しますが、幕府の態度がはっきりせず、結局不平等な条件の「日米和親条約」を締結してしまいます。
それに続きイギリスとの「日英和親条約」、ロシア帝国との「日露和親条約」が結ばれ、事実上日本は鎖国を解くこととなりました。
そういった政府の流れに、日本中は揺れ動きました。
その中で開国を支持する者・開国を反対する者、幕府を支持する者・天皇を尊重して支持する者など、様々な思想の元に活動を始めるのです。
日本国内は大きく分けると「公武合体派」と「尊王攘夷派」の対立となり、長州・土佐藩などは過激な尊王攘夷派でした。
そして尊王攘夷を掲げて「天誅」と称し京都を中心にテロ活動を行うようになり、それを排斥するために公武合体派の京都守護職である会津藩の下で新撰組が結成されました。
池田屋での新撰組
池田屋事件というと、踏み込んだ近藤勇らによって斬られた尊王攘夷志士たちが階段から転げ落ちる、いわゆる「階段落ち」が有名ですが、実際の池田屋の階段は狭く、斬り合いで階段から落ちるというう状況になる事はない、というのが定説になっています。
また、沖田総司が喀血して倒れた、という場面も有名ですが、実際には池田屋で沖田総司が倒れたというのは史実のようですが、喀血したという記載は一切見つかりません。
その時の状況やその後の沖田総司の行動をみてみると、沖田総司は数時間の戦闘の疲れで熱中症あるいは貧血で意識を失ったのではないかとされています。
新撰組は、身分に関係なく実力重視の隊士たちによって、武士道を掲げて厳しい隊規の下で働いた浪士隊です。
時代劇などの影響で勤王派の志士たちを斬りまくったイメージが大きくなっていますが、実際の新撰組の仕事は市中巡回と警備、そして不審者の探索や要人警護でした。
池田屋事件は、新撰組にとって特別な事件ではなく、普段から行っていた「任務の一つ」だったのです。