近藤勇と坂本龍馬の知られざる興味深い関係とは?

新撰組の近藤勇と海援隊の坂本龍馬、この両者は対立関係にあったとされることが多いのですが、実は両者の間には興味深い関係があります。

ここでは近藤勇と坂本龍馬の関係性についてご紹介します。

黒船来航で国のことを真剣に考え始めた二人

坂本龍馬は、天保6年(1835年)土佐藩の町人郷士である坂本家の二男として産まれました。

12歳ごろから地元の剣術道場に通い始め、19歳で江戸へ剣術修行に向かい、北辰一刀流・千葉定吉の門下生となります。

龍馬は初めは土佐藩士として、過激な攘夷思想の持ち主でした。

しかし後に外国の話を聞き、外国人と交流を持つにしたがって「貿易」に興味を持つようになり、その頃から攘夷思想は弱まっていきます。

土佐藩の尊王攘夷派の志士たち「土佐勤王党」に属していた龍馬でしたが、次第に土佐勤王党の過激で狭量な思想に反発するようになり、土佐藩を脱藩します。

龍馬には数えきれないくらいの功績が伝えられていますが、ここで一番注目したいのは、龍馬の考えが柔軟で、新しいものを積極的に取り入れるということです。

龍馬は極端な考えに偏らず、たくさんの人と交流し、日本の将来のことを真剣に憂いて行動に移した人物でした。

そして新撰組の近藤勇も、黒船来航でこれからの日本はどうあるべきか考え始めた一人でした。

そういう意味では、方法や行動こそ違え、日本という国に対する姿勢には共通点があったと推測されます。

竜馬暗殺の犯人は新撰組ではなかった!

坂本龍馬が暗殺された当時は、剣に長けた龍馬が抵抗できずに斬られたということから新撰組が実行犯なのではないかといわれていました。

近藤勇が捕縛された時も、龍馬暗殺に関しての尋問が多かったと伝えられています。

現在でも龍馬暗殺には謎がたくさん残っていますが、松平容保の指揮下の京都見廻り組の仕業なのではないかというのが定説になりつつあります。

近藤勇ら新撰組は、信頼する松平容保の命令であっても、坂本龍馬を暗殺することは自分たちの主義に反する行為だったと推測されます。

近藤勇と坂本龍馬は会ったことがあるのか?

近藤勇と坂本龍馬が会ったことがあるという記述のある史料は一切ありません。

しかし、近藤勇が天然理心流で名を上げてきたころ、ちょうど坂本龍馬も江戸で北辰一刀流の稽古に励んでいました。

江戸で行われていた剣術の大会で両者とも好成績を上げていることから、直接対決はなかったもののお互い存在だけは知っていた可能性は高いのです。

また、近藤勇は京都町奉行所及び見付役である永井尚志という人物と、京都守護職の松平容保の下で働いていたという接点があり非常に仲良くしていました。

近藤勇は永井尚志の護衛をしていた時期があり、永井尚志の紹介で土佐藩の後藤象二郎と知り合うことになります。

後藤象二郎は、大政奉還に関して坂本龍馬とよく行動を共にしていました。

このようなことから、永井尚志を通じて近藤勇と坂本龍馬の間に接点があった可能性があるのです。

あくまで可能性ではありますが、近藤勇と坂本龍馬の間にはある意味同士としての興味深い関係性があったのではないかと推測されます。

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