近藤勇が最後に陣を敷いた流山、そこに現存する新撰組ゆかりのスポットは?

新撰組の局長近藤勇が最後に陣を構えたのが現在の千葉県流山、そしてそこが近藤勇と盟友である土方歳三らとの別れの地でもありました。

ここではその流山に現在でも残る、近藤勇ゆかりの地をご紹介します。

流山で新政府軍に出頭した近藤勇

鳥羽伏見の戦い、そして甲州勝沼の戦いに敗れた新撰組は、再集結をはかって流山(現在の千葉県流山市)に陣を敷きました。

その陣は「酒造家長岡屋」、そして今は「流山本陣跡」と呼ばれています。

近藤勇が流山という土地を選んだ理由はよくわかっていませんが、最終目的地の会津へ向かうために、追手である官軍の目につきにくい道を選んで進む途中、新部隊結成のためにここを選んだのではないかと考えられています。

同じ千葉県の市川の国府台など数カ所でも、新政府軍への抵抗のために江戸から脱走してきた同志たちが集まってきたという背景もあります。

しかし、新政府軍は流山に集結する一団の情報をつかみ、一隊を差し向けて真相を探ろうとしました。

新政府軍は羽口の渡しを渡りこれを包囲、近藤勇以外は急遽撤収しましたが、流山の街が兵火に巻き込まれることを潔しとしない近藤勇は、ここで一人自首するのです。

他の隊士達の必死の静止にも関わらず近藤勇の決意は固く、出頭後は「自分は近藤勇ではなく大久保大和」と名乗りました。

しかし新政府軍の中に新撰組の近藤勇の顔を知っていた人物がいたため、新撰組局長・近藤勇として裁かれることになり、板橋の刑場で斬首されるのです。

近藤勇の処分については擁護派の薩摩藩と厳罰派の土佐藩と意見が対立しましたが、結局元土佐藩の坂本龍馬暗殺が新撰組の仕業だとされて斬首の刑に処されたとされています。

流山に残る近藤勇ゆかりの地

流鉄流山線流山駅から徒歩5分ほどに、新撰組流山本陣・近藤勇陣屋跡があります。

江戸の風情が残る街中の一角にある近藤勇陣屋跡は、現在では建物は残っておらず蔵造りの建物の前に碑と近藤勇に関しての説明の看板があるだけです。

展示などはありませんが、ここで近藤勇と土方歳三の最後の地だという確かな痕跡は、新撰組ファンならずとも感慨深くなる場所となっています。

近藤勇陣屋跡以外にもこの辺りは、昔ながらの街並みが残っており、近藤勇関連の案内も各所にあります。

また、この場所には酒造家・長岡屋の土台の石があり、長岡家の階段は市立博物館に保存されています。

流山市は現在でも付近の江戸回廊や近藤勇陣屋跡を大切に残す方針で、新撰組関連の行事を不定期に行っており、過去には「新撰組サミットin流山」などのイベントも開催されました。

平成19年4月8日には流山の長流寺などで「第4回勇忌」が行われ、近藤勇や土方歳三のご子孫らもご焼香に駆け付け、近藤勇のご冥福を祈りました。

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