近藤勇の東京にあるゆかりの地と新撰組のルーツは?

幕末の京都での活躍が有名な新撰組ですが、近藤勇ら主要メンバーのほとんどは江戸出身です。

ここでは近藤勇の、東京都内のゆかりの地をご紹介します。

近藤勇誕生の地

近藤勇は天保5年(1834年)武蔵国多摩郡上石原(現在の調布市野水)の農家・宮川久次郎の三男として誕生しました。

幼名は宮川勝五郎といいます。

15歳のころに二人の兄と共に天然理心流・近藤周助の元に入門、その後その腕と実直な性格を見込まれ、近藤周助の養子になりました。

近藤勇の生家は、甲州街道上石原宿の北にありました。

富農であった宮川家の生家は約2,120坪もある大きな屋敷で、実父・宮川久次郎は、天然理心流近藤周助を招き、屋敷内の納屋を剣術道場として提供しました。

近藤勇が近藤家の養子になった後は、この道場がこの近隣の出稽古先として、大いににぎわったと伝えられています。

生家は昭和18年調布飛行場から飛び立つ戦闘機の妨害になるということで、残念ながら取り壊されてしまい、近藤勇が産湯に使ったとされる井戸だけが残されています。

そして、宮川家の協力の受けて復元した30分の1縮尺の生家模型が、調布市郷土博物館に展示されています。

近くには、昭和元年に東京近郊の軍人たちによって建立された近藤神社があり、天然理心流道場・撥雲館もあります。

そして近藤勇の墓所がある龍源寺も、歩いて行くことができる距離にあります。

いずれも西部多摩川線の多摩駅から徒歩10分ほどです。

大國魂神社

近藤勇が天然理心流4代目の襲名披露試合は、現在の京王線府中駅から徒歩5分にある大國魂神社で行われました。

野試合に先立って、六社宮(大國魂神社)で奉納をした後、拝殿で神楽が奏でられ、拝殿前で「型試合」を披露したといわれています。

そして、紅白に別れた野試合は近所のもっと広い場所で行われたと思われます。

紅組は土方歳三・山南敬助、他36名
白組は佐藤彦五郎・井上松五郎、他36名

近藤勇は本陣総大将として、行事として野試合を仕切りました。

襲名披露試合の後、総勢約70名の門人たちは、府中宿の楼閣を総揚げして大騒ぎの酒宴をしました。

また、現在も大國魂神社の境内には入館無料の「ふるさと府中歴史館」があり、興味深い資料が展示されています。

試衛館跡

大江戸線牛込柳町駅から徒歩5分ほどの場所に、近藤勇の天然理心流の道場跡地があります。

現在ではこの辺りは駐車場になっています。

街並みの中にひっそりと案内板が立っているだけですが、この場所で後の新撰組の試衛館出身のメンバーたちが稽古していたという証が残っているのは嬉しいことです。

試衛館跡近くに試衛館に深い関係がある稲荷神社があります。

残念ながら現在では鄙びてあまり手入れがされていない神社ですが、試衛館の道場主である近藤勇や土方歳三らが折に触れて参拝した神社だとされています。

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