古武道の流派天然理心流4代宗家である近藤勇、その天然理心流とは?

天然理心流とは、新撰組局長・近藤勇の剣術の流派です。

ここでは天然理心流と、4代宗家である近藤勇の剣術についてご紹介します。

天然理心流とは

天然理心流とは、江戸時代後期に剣客・近藤内蔵之助が創始した古武道の流派で、古武道としては比較的新しい流派です。

天然理心流は、剣術をはじめ居合術や小太刀術を含み、また柔術や棒術なども含めた総合武術です。

初代近藤内蔵之助は遠江の出身といわれており、江戸に道場を開きました。

そして二代目を近藤三助が継ぎ、現在の多摩地区や埼玉や神奈川まで広範囲に普及しました。

二代目の近藤三助は、天然理心流の指南免許を誰にも与えないうちに46歳で早逝してしまいました。

後継者が決まっていなかったことから、免許までを受けていた高弟たちは、後に天然理心流を各地で教えることになりました。

新撰組の近藤勇の養父である近藤周助もその一人で、4代目である近藤勇が京都で新撰組局長として活躍したことで、天然理心流の知名度は飛躍的に上がりました。

近藤勇と天然理心流

近藤勇の幼少の頃の名前は宮川勝五郎といい、後に勝太と改めました。

近藤勇と名乗るのは、天然理心流の近藤周助の養子になって近藤家と養子縁組をした時になります。

宮川勝太は、江戸牛込にある天然理心流道場である「試衛館」に入門、その腕を見込まれ目録を受け、後に近藤家の養子となりました。

近藤勇は天然理心流宗家4代目を襲名し、試衛館道場のために心血を注ぎました。

あまり知られていない話ですが、近藤勇は新撰組隊士以外にも天然理心流の門人同士での交流を広く持っていました。

特に密接に交流したのは、佐藤彦五郎・小島鹿之助という人物で、「三国志演義」に倣って義兄弟の契りを結んだという逸話が残っています。

佐藤彦五郎や小島鹿之助は隊を組織しており、そのうちの一部の隊士は、新撰組が甲陽鎮撫隊と名を変えて勝沼に向かった際に合流したと伝えられています。

天然理心流の特徴と魅力

江戸時代後期、江戸には三大道場と呼ばれた有名な剣術道場(玄武館・士学館・練兵館)がありました。

その頃天然理心流も多摩で道場を開いていましたが、全くの無名であり田舎剣法などと呼ばれていました。

しかし、軽く打ち合うだけの道場が多い中、天然理心流は実戦的であり人を殺傷することができる剣術でした。

不良浪人が跋扈していたこの時代には、天然理心流のような剣術は必要なものであり、人々はそこに魅力を感じて道場も賑わいをみせるようになりました。

そして後に新撰組の名前が上がるにつれて、近藤勇ら隊士の多くが天然理心流ということが知れ渡り、天然理心流はますます有名になっていくのです。

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