幕末の京都を駆け抜けた新撰組の中でも、一番の剣士と言えば沖田総司が有名です。
ここではその沖田総司の強さと、剣術についてご紹介します。
天才剣士・沖田総司
沖田総司は、1844年(1842年とも)陸奥白河藩・沖田勝次郎の嫡男として江戸の白河藩邸で生まれました。
沖田総司が生まれたころの沖田家が日野にあったことから、近所で親戚でもあった、後の新撰組隊士・井上源三郎の家によく出入りしていました。
井上家の男子が皆天然理心流の剣術を習っていたことから、沖田総司は幼いころからその影響を受けて育ったものと思われます。
沖田総司は9歳のころ、大人に剣術で勝ったことから才能を見込まれ、天然理心流道場「試衛館」に入門し、道場主・近藤周助の内弟子となりました。
沖田総司は12歳のころに、すでに白河藩の剣術指南と対戦して勝ち、その後1860年にはその腕を認められ試衛館道場の塾頭となりました。
後に永倉新八は「沖田総司にかかれば土方歳三や、北辰一刀流の目録を持っていた藤堂平助など子ども扱いで、本気になれば師匠の近藤勇にも勝っただろう」と語っています。
他の隊士達も、新撰組の中では年若の沖田総司が一番強かったと語っていました。
沖田総司の剣術
沖田総司は若くして塾頭を務めたことからも、相当の使い手だったと思われます。
沖田家累代墓碑には、天然理心流の他に北辰一刀流の免許皆伝を習得していた旨も記載されています。
沖田総司の剣技で有名なのは、三段突きです。
平正眼の構えから、踏み込みの足音が一度しかしない間に三回の突きを繰り出した、つまり相手が一突きされたと思った瞬間に三度突かれていたというほど素早かったとされています。
そして、沖田総司の剣術の形は師匠の近藤勇とそっくりだったと伝えられています。
掛け声も、腹の底に響くような甲高い声で、それが近藤勇とよく似ていたとされています。
ただし、構えは多少近藤勇と異なり、太刀先がやや下がり気味だったことが特徴的でした。
沖田総司は試衛館道場の塾頭として後輩に指導もしていましたが、教え方は師範の近藤勇よりも厳しく荒っぽいものだったという記録も残っています。
新撰組以外の人物からも、「晩年必ず名人になる人」「近藤秘蔵の部下で、局中第一の使い手」などと絶賛されていました。
実は、現在沖田総司のものとして残っている写真や肖像画は、全て想像で作られたものばかりで、実際はどんな顔だったのかはわかっていません。
しかし、よく小説や漫画などに描かれているような色白の美少年というよりは、明るく笑うと愛嬌のある、どちらかというと肩の張ったスポーツマン体型だったという説が有力となっています。