尊王攘夷派だった伊東甲子太郎のゆかりの地はどこに?

伊東甲子太郎は、新撰組に途中入隊し参謀に任命された優秀な人物でした。

その伊東甲子太郎の尊王攘夷思想の原点と、ゆかりの地についてご説明します。

伊東甲子太郎の出自

伊東甲子太郎は天保5年12月3日、常陸国志筑藩士である鈴木専右衛門忠明の子として生まれました。

父・忠明が家老と争いになった事によって蟄居、そして伊東甲子太郎が家督を相続しました。

しかし後に、忠明に借財があったことによって家名断絶となり一家は追放されてしまいました。

そして伊東甲子太郎は水戸へ遊学し、水戸藩士である金子健四郎に神道無念流剣術を学び、勤王思想に傾倒します。

水戸は「水戸学」発祥の地であり、水戸学とは儒教の思想を中心として、それに国学・史学・神道を結合させたものです。

水戸学を学ぶものが多かった水戸藩では、尊王攘夷思想が浸透しており、これが伊東甲子太郎の勤王思想の原点となるのです。

伊東甲子太郎ゆかりの地・油小路

新撰組に入隊した伊東甲子太郎ですが、後に近藤勇らと意見を異にし、14人の同志と共に新撰組を離脱して御陵衛士を結成します。

慶応3年11月18日、伊東甲子太郎は近藤勇の妾宅(醒ケ井木津屋橋)で接待を受け、酔った伊東甲子太郎は帰途の途中の油小路で、新撰組隊士数名によって暗殺されました。

その御陵衛士は東山高台寺月真院を屯所としたため、高台寺党とも呼ばれていました。

高台寺は豊臣秀吉の妻・ねねの寺として有名で、京都東山の人気スポットが数多くあるエリアにあります。

伊東甲子太郎が暗殺されたのは、京都市下京区油小路通で、そこには本光寺という尼寺があり、その本光寺前で新撰組隊士達に襲われました。

瀕死の重傷を負い抜刀して立ち向かいますが、本光寺門前に建てられている石塔に倒れかかって絶命したといわれています。

現在本光寺の門内右側にある供養塔がその石塔で、油小路事件当時は今とは逆に、この石塔が表通りの油小路にありましたす。

現在本光寺の門前にある石碑と、「伊東甲子太郎他数名殉難の地」と書かれた駒札そして説明書きの看板は、昭和46年に建てられたものです。

「本光寺に逃げ込んだ」とか「尼寺に逃げ込んだ」などと描写されることもありますが、現在石碑が内部に移動していることからそういう誤解が生まれたと思われます。

油小路は京都駅からほど近い距離にあり、現在では奇麗な舗装道路になっています。