甲州勝沼の戦いとは、鳥羽伏見の戦いで新政府軍(官軍)で敗れた新撰組と、甲州街道を通って進む新政府軍との戦闘のことを指します。
ここでは、その勝沼の戦いと、その後の近藤勇ら新撰組についてご説明します。
新撰組が甲州に向かった理由
鳥羽伏見の戦いで敗れて江戸城に入った新撰組・旧幕府軍は、新政府軍に対して恭順か徹底抗戦かで意見が分かれました。
そして恭順派寄りの意見の勝海舟は、徹底抗戦派である新撰組を江戸から遠ざけるために、甲府城へ向かうように命じます。
諏訪方面から進軍してくる新政府軍を迎え撃つために、新撰組に「甲陽鎮撫隊」と名を改めさせ、甲府城へ向かわせたのです。
その時新撰組の隊士は約70名しかおらず、江戸で隊士を新たに募りました。
そして近藤勇は大久保剛、土方歳三は内藤隼人と名を変えて、1868年3月1日、江戸を発ち甲州街道を甲府へ向かいました。
甲陽鎮撫隊は多摩を通る際にも隊士を募っており、土方歳三の生家のある日野宿に泊った際にも、義兄である佐藤彦五郎に30名ほど隊士が欲しいと頼んでいます。
遅れて到着した新撰組(甲陽鎮撫隊)
しかしすでに新政府軍は、板垣退助ら3000人超の軍勢で甲府城を先におさえていました。
そのため甲府城に入ることができなかった甲陽鎮撫隊は、故郷の多摩で時間を取りすぎたことや、大名行列のような派手な進軍をしていたため遅れたとも言われています。
しかしこの時の甲陽鎮撫隊は、300名ほどが大砲2門・小銃500艇を峻険な小仏峠や笹子峠、また談合坂を越えてきたことから、相当厳しい行軍だったと考えられ、そのせいで到着が遅れたということも推測されます。
この間、沖田総司は病が重くなり途中で離脱、甲陽鎮撫隊は甲府盆地に入りますが、戦力の差は絶望的です。
結局甲州勝沼の戦いでは甲陽鎮撫隊は総崩れ、笹子峠を越えて八王子へ退却し、その後日野で解散となりました。
その後の近藤勇
江戸で再起を図る近藤勇でしたが、新撰組結成当時からの盟友である永倉新八・原田左之助が意見の食い違いから離脱、近藤勇と土方歳三は会津行きに備えて隊を再結集することになりました。
この時に、近藤勇は大久保剛からさらに大久保大和と名を変えています。
そして下総国の流山に屯所を構え、近藤勇はそこで新政府軍に捕縛されてしまいます。
近藤勇は捕縛されたのではなく投降したという説もありますが、この時に土方歳三は近藤勇にあくまで大久保大和で通すように言い、自分は江戸で近藤勇の助命嘆願をしました。
しかし、新政府軍の側に新撰組当時の近藤勇の顔を知る者がいたことから、近藤勇は板橋宿に連行され、斬首されました。
そして近藤勇処刑後の土方歳三は、宇都宮・会津を経て、最終決戦地である蝦夷地の函館へ向かうことになるのです。