芹沢鴨の生家はどこに?跡地には現在何が?

新撰組局長といえば真っ先に近藤勇の名前が出てきますが、初代筆頭局長である芹沢鴨の人気も見逃せないものがあります。

ここでは芹沢鴨の出自と生家、そこは現在どうなっているかをご紹介します。

芹沢鴨とは?生家はどこ?

芹沢鴨は、新撰組の前身である壬生浪士隊で、初代局長筆頭を務めた人物です。

小説やドラマでは、芹沢鴨は乱暴者で、その数々の乱暴狼藉よって近藤勇らに粛清されます。

しかし実は、ただの酒乱の乱暴者というだけの人物ではありませんでした。

芹沢鴨は天保3年(1832年)茨城県行方市芹沢で産まれ、前名は下村嗣次といいます。

この出身地については近年、行方出身ではないのではないか?という新説が出てきていますが、ここでは従来の行方市芹沢を出身地とします。

芹沢鴨の生家は、敷地も広く立派な数寄屋問と塀に囲まれた閑静な場所にあります。

門には「芹沢鴨生家跡」という立て看板があり、そのわきには芹沢鴨の解説の掲示もあります。

しかし残念なことに中に入って見学することはできません。

本宅は幕末に焼かれてしまって今はなく、この場所は芹沢家の元隠居所だったといわれています。

また、庭に石造りの蔵もありましたが、残念ながら2011年の東日本大震災で崩れてしまいました。

芹沢家は代々この生家の裏にあった芹沢城の殿様で、この辺りの人々はずっとお殿様・ご主人様と呼んでいたと伝えられています。

現在では城はなく城址となっています。

現在の芹沢家のご当主は別の街にお住まいですが、当時の家臣たちは今でもこの家の周りで暮らしている方が多いとされます。

そしてすく近くにある菩提寺の法眼寺でも、芹沢家のお墓の周りを囲むように家臣たちのお墓が並んでいます。

芹沢鴨はただの乱暴者ではなかった!?

芹沢鴨は15歳のころから医学を学び、薬草を栽培するなど薬の知識も豊富だったといわれています。

また和歌に通じ、幼いころから水戸学を学び、神道無念流の師範代を務めるなど、文武両道の天才だったともされています。

武田耕雲斎から学んだ水戸学は尊王攘夷思想であり、芹沢鴨は水戸天狗党の前身である玉造組の頭になり、のちに天狗党の乱などで蛮名を轟かせることになりました。

そのころ芹沢鴨の下には、300人を超える手下の若者が集まったとされています。

一度は捕縛され極刑に処されるはずだった芹沢鴨ですが、その後の恩赦によって釈放、そして新撰組の前身である壬生浪士隊へ参加しました。

こういった芹沢鴨の才能を見れば、新撰組初代筆頭局長が近藤勇ではなく芹沢鴨になったのも頷けます。

また、芹沢「鴨」という名前についても、「常陸国風土記」に「大和武尊(ヤマトタケル)がここ芹沢村を通過する時に鴨を従えていた」という記述があることから、鴨という名前をつけたという逸話が残っています。

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