新撰組組長近藤勇、その波乱の生涯と最後

新撰組の顔といえば、局長である近藤勇です。

ここではその近藤勇の生涯と、最後についてご紹介します。

武蔵国で産まれた近藤勇

近藤勇は1834年10月9日に武蔵国多摩郡上石原(現在の東京都調布市)の豪農・宮川家の末子として産まれました。

15歳のころに兄二人と共に天然理心流剣術道場である試衛館に入門、熱心に稽古に励んだといわれています。

その熱意と技量を師匠である近藤周助に認められて、近藤家と養子縁組をして近藤勇と改名しました。

剣術一筋に力を注いだ近藤勇でしたが、漢学などの勉学にも励んだ真面目な青年だったと伝えられています。

1860年、清水徳川家の家臣・松井八十五郎の長女である「つね」と結婚、後に京都で様々な浮名も流した近藤勇でしたが、亡くなるまで妻である「つね」を大切にしたとされています。

新撰組結成

1863年、庄内藩郷士である清川八郎の献策によって、徳川幕府14代将軍・徳川家茂の上洛警護のための「浪士組」の参加者が募集されました。

その募集に、近藤勇は試衛館の仲間8人と共に参加、京都に向けて出発しました。

浪士組は京都・壬生の郷士・八木源之丞の世話を受けることとなって八木邸に宿泊しました。

しかし将軍警護の目的のために集められたはずの浪士組は、清川八郎によって尊王攘夷の先鋒であるという建白書を朝廷に提出されたのです。

そして清川八郎は攘夷決行のため、浪士組の江戸への帰還をもちかけました。

近藤勇ら24人はそれに反対し、あくまで幕府の警護のために働くとして京都に残り、京都守護職を務める会津藩主・松平容保に嘆願書を提出、会津藩預かりの「壬生浪士組」として京都での治安活動を開始しました。

その後、その働きによって「新撰組(新選組)」の名を賜り、そこから新撰組としての活動が始まります。

新撰組は池田屋事件で朝廷と幕府から感状と報奨金を賜り、隊の規模も大きくなっていきます。

1867年には新撰組はその功績から幕臣に取り立てられ、近藤勇は幕府代表の一員として、様々な政府の交渉の場にも顔を出し発言したと伝えられています。

戊辰戦争後の近藤勇

徳川慶喜による大政奉還の後も、新撰組は旧政府軍に従って戊辰戦争に参加しましたが、鳥羽・伏見の戦いで敗北、この頃近藤勇は大阪城におり怪我の療養中でした。

その後、幕府からの甲府鎮撫の命を受け、新撰組は「甲陽鎮撫隊」として甲州へ進撃するも新政府軍との勝沼の戦いで敗北し、江戸にもどります。

そして近藤勇は土方歳三らと再起をかけ流山に移動しますが、新政府軍に包囲され捕縛、越谷の政府軍本営に連行されてしまいます。

1868年(慶応4年)4月25日、中山道板橋宿の板橋刑場で斬首、享年35歳でした。

その後首は京都の三条河原で晒され、その首の行方はその後不明となっています。

墓所は生地である調布と近い東京都三鷹市の龍源寺と、旧同士であった永倉新八によって処刑場に近いJR板橋駅東口前の寿徳寺境外墓地に建てられました。

また福島県会津若松市や山形県米沢市などに、遺体の一部を埋葬したとされる墓所も存在します。

現在でも近藤勇を弔うために民間団体による「近藤勇忌」が流山市や会津若松市などで行われています。

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