土方歳三の終焉の地とは?お墓はどこに?

新撰組副長土方歳三は、明治政府への徹底抗戦の末に戦死しました。

ここでは土方歳三の終焉の地、そしてお墓はどこにあるのかについてご紹介します。

土方歳三の最後の戦い

戊辰戦争というのは、慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いに始まる、旧幕府軍と新政府との間で繰り広げられた各地の戦闘の総称です。

土方歳三は、負傷のため参戦できなかった近藤勇の代わりに新撰組を率いて戦いますが敗戦、江戸から甲斐へと戦闘の地を変えて北上していきます。

宇都宮城を陥落させるも負傷してしまった土方歳三は、3ヶ月の療養生活の後会津へ向かい防戦に尽力しました。

庄内藩へ援軍を求めて向かった土方歳三ですが、聞き入れられず仙台へ向かい、そこで榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流、榎本武揚と意気投合して共に蝦夷地(今の北海道)へ渡ります。

蝦夷の函館での明治政府軍との戦闘が、土方歳三の最後の戦いとなります。

通説では流れ弾に当たって斃れたといわれていますが、それが本当に致命傷になったのかなど、現在でも様々な説があります。

土方歳三の遺体は?墓はどこに?

実は、白兵戦の中で被弾し戦死した土方歳三の遺体がどうなったのか?どこに運ばれたのか、埋葬場所はどこなのか、現在でも謎のままなのです。

その理由として、土方歳三はあくまで「明治政府に楯突く賊軍」、そして敗者だったからです。

新撰組局長だった近藤勇は、斬首の後晒し首となりました。

もし、土方歳三の遺体が政府軍に見つかってしまえば、たとえ死後であっても晒し首になってしまう、それは土方歳三と共に戦った仲間たちが一番恐れていた事態だと推測されます。

土方歳三の部下が、政府軍(官軍)に見つからないように、他の戦死者と共に函館の五稜郭内に地中深く埋葬された、という話も残っていますが、確証はありません。

大正15年(1926年)に、函館五稜郭内でこの時代のものであるとされる3体の遺骨が発見されましたが、これが土方歳三のものであると特定されませんでした。

土方歳三の墓は、故郷である東京都日野市の石田寺にあり、墓石には歳三の諱である「義豊」の名が刻まれています。

石田寺が土方家の菩提寺であることから、そこに墓所がたてられましたが、実はそこに遺骨はありません。

最後の戦いの際に戦況から脱出した小姓・市村鉄之助が土方歳三から託された遺髪が収められているという説がありますが、推測の域を出ません。

明治初期に「太政官布告」という通達によって「戊辰戦争戦没者の慰霊をしてもよい」という通達がなされるまでは、旧幕府軍のお墓や碑などをたてることもできなかったという背景もあります。

石田寺では毎年命日前後に「歳三忌」が行われ、墓前法要や別会場で行われる講演会などが催されます。

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