土方歳三の死因は?最期の地函館での彼の思惑とは?

戊辰戦争の最終決戦となった函館の地で散った土方歳三。

ここでは、最期の地に向かった土方歳三の思惑を、残された史料に基づいてご紹介します。

土方歳三が最期の地・函館へ向かった経緯

鳥羽・伏見の戦いで、徐々に幕府の支配力が低下していく中、近藤勇や土方歳三ら新撰組は、京都を離れて江戸へ向かうことになりました。

退却した新撰組に届いた知らせは、徳川慶喜と松平容保が戦艦で逃亡したという驚くべきものでした。

この時点で、幕府のために命がけで戦ってきた、そしてこれからも戦いたいと思っていた者たちの落胆はかなり大きかったと想像されます。

徳川慶喜が逃亡したのは、京都でこれ以上人が死ぬのを良しとしなかった、また京都の町を荒らしたくなかったなどという理由も上げられますが、突然の逃亡劇は新撰組ら佐幕に努めてきた人々にとっては衝撃的なものだったと推測されるのです。

その後、勝海舟の提案によって新撰組は「甲州鎮撫隊」と名前を変えて、幕府の直轄領である甲府で新政府を抑えに行くことになります。

これは勝海舟が、これからの日本にとって新撰組は必要ないと思い、江戸から遠ざけたと考えるのが自然です。

しかし甲府に向かった新撰組は、先に新政府軍に甲府城を押さえられたことや兵の数の差などによって敗走してしまいます。

その後、近藤勇や土方歳三らは下総の流山に本陣を構えて、会津で戦うことを決意します。

しかしそこで近藤勇は捕縛され、斬首されてしまいます。

流山に来る前に永倉新八らが新撰組から離脱、沖田総司も病没、しかし土方歳三は戦い続けます。

宇都宮、会津、仙台戦での敗北後、土方歳三は榎本武揚率いる海軍と共に、蝦夷地である函館へ向かうことになるのです。

函館での土方歳三の思惑

土方歳三らは函館・五稜郭を占領松前城も陥落させ、一時は「蝦夷共和国」を成立させ函館政府が樹立しました。

しかしその後の新政府軍の函館総攻撃が行われ、土方歳三は銃弾が腹部に当たって落馬、その後絶命してしまいました。

土方歳三の被弾に関しては、敵の銃弾あるいは流れ弾に当たったというのが通説となっていますが、徹底的に降伏に反対する土方歳三に対して不満を持つ者が、どさくさの中で暗殺したのではないかという説も存在しています。

土方歳三は、試衛館以来の盟友であり生涯共に戦ってきた近藤勇が処刑された後も戦い続けました。

新撰組を率いた近藤勇の下で、鬼の副長として隊と局長を支えた土方歳三は、粛清や暗殺などの汚れ役を引き受けて新撰組を統制してきたと考えられます。

土方歳三は、新政府軍との戦力の差を知りながら、最後まで無謀と思われる戦いを続けたのか?

その根底には、近藤勇と追った「夢」を完遂したかったのではないかと考えられます。

新撰組の名を天下にとどろかす夢、そして農民出身から幕府の幕臣(武士)にまでしてもらった徳川幕府への恩、そのために最後の最後まであきらめることなく戦い続けた、それが土方歳三の思いだった、そう解釈しても間違いではないと思われます。

土方歳三は五稜郭で戦死する一か月も前に、自分の写真と辞世の句そして髪の毛を、日野の佐藤彦五郎に届けるように小姓・市村鉄之助に託しました。

最後まで共に戦いたいと泣いて懇願する16歳の市村鉄之助に対して、土方歳三は刀で脅して、路銀なども渡して五稜郭から離脱させました。

辞世の句は
「よしや身は 蝦夷が島辺に朽ちぬとも 魂は東(あずま)の 君やまもらむ」

意訳すると「たとえこの身が蝦夷地で果てたとしても、魂は東にいる将軍を守る」とされていますが、「東の君」は元新撰組隊士達そして近藤勇の魂を指したのではないかとも解釈できます。