土方歳三は、新撰組の中で確実に本人だとされる写真が現存しているうちの1人です。
函館で銃弾で斃れる少し前に撮られた写真で、それを見てもかなりの美男子だったと思われます。
ここでは土方歳三の恋愛遍歴や、結婚についてご紹介します。
土方歳三は三味線屋の旦那になるはずだった?!
土方歳三の兄・為次郎は俳句や浄瑠璃などを趣味に持ち、江戸の内藤新宿近くの戸塚村の三味線屋に出入りしていました。
その縁もあり土方歳三は、歳三の姉ノブの夫である佐藤彦五郎の紹介で、三味線屋の看板娘お琴と知り合いました。
お琴は近所で評判の器量良しで、婚約寸前、あるいは婚約だけはしたのではないかという両方の説があります。
しかしその頃の土方歳三は、近藤勇の試衛館道場で剣術を学び、また近藤勇と共に時代の流れを敏感に感じ取りはじめた時期でした。
土方歳三はお琴に、「天下騒乱の今、いずれ自分は名を上げることをなしたい。なので自由な身でいたい」と結婚の意思がないことを告げ縁談を断りました。
そして土方歳三は浪士隊として上洛します。
その後何度か故郷に帰った際に、土方歳三はお琴に土産を買ってきたという話も残っていますが、結局は結ばれることはなく、その後のお琴もどうなったのかは不明です。
土方歳三が愛した女性たち
土方歳三は17歳のころ、江戸大伝馬町の呉服屋に奉公に出て、そこの年上の女中と良い中になり、妊娠させたという話わ伝わっています。
そして結局歳三は、自分でその女性と家族と話し合い納得させ手を切りました。
これはちょうど土方歳三が近藤勇と知り合った頃のお話です。
土方歳三が新撰組で活躍していたころ、遊郭の野菊という芸妓を愛妾としました。
歳三の愛妾が女児を出産したが夭折した、という話も伝わっていますが、これが野菊との間の子だったのかははっきりしていません。
土方歳三は、支援を受けていた武州小野路村名主の小島鹿之助に大変変わった書簡を送りました。
それは「婦人恋冊」というもので、自分に寄せられた恋文を一冊に綴ったものでした。
また、大阪や京都の花街で自分を慕う女性たちの源氏名を、町ごとに紹介したものも送ったと伝えられており、現在でも仙台博物館に「婦人恋冊」は現存しています。
土方歳三は派手な女性遍歴はあったものの、トラブルになったという話は一切伝わってこないところから、決して女性関係にだらしなかった男性ではなかったのではないかと思われます。
土方歳三が生涯結婚しなかったことも、自分は命がけで天下のために動くという信念があったため、家というものを持たなかったのではないかと考えられます。