土方歳三と坂本龍馬の歴史的関係性はどうだったのか?

土方歳三・坂本龍馬、両者とも幕末で名をはせた人物です。

ここではこの両者、また新撰組と坂本龍馬はどのような関係があったのかをご説明します。

新撰組と坂本龍馬は敵対関係?

黒船来航以来、幕府の権威は徐々に低下していき、土佐藩などの力のある藩では、倒幕運動が盛んになっていきました。

剣術の稽古に励んでいた坂本龍馬も、初めは土佐藩士として尊王攘夷思想を持っていました。

しかしたくさんの人と交流を持ち語り合ううちに、徐々に旧式で狭量の土佐勤王党の攘夷のやり方に疑問を持ち、土佐藩を脱藩します。

そして勝海舟と出会い、外敵を斥けることではなく貿易を行うことがこれからの日本にとって有益だと考えるようになり、行動に移すことになります。

坂本龍馬は、尊王攘夷派・公武合体派そして倒幕派とも接近できる、きわめて柔軟な思考と人脈の持ち主でした。

後に坂本龍馬は犬猿の仲であった薩摩藩と長州藩を結び付けるなどの大きな功績を残しますが、これも坂本龍馬の先進的な思考のなせる業だと思われます。

このような活動をしていた坂本龍馬と、あくまで佐幕(幕府を尊ぶ)派だった新撰組とは敵対していた、とされることが多いのですが、方法こそ違えお互い日本を良い方向に向けたいという目標を持っていたという意味では「同士」とも位置付けられるのです。

新撰組の任務はあくまで幕府や街の警護です、暗殺や外敵排斥などの行為はその職務ではありません。

ですので、坂本龍馬の暗殺は新撰組というのはあくまで噂で、実際には幕府の京都見廻り組の仕業だとされています。

土方歳三と坂本龍馬は同い年

坂本龍馬はしばらく江戸の道場で剣術を学んでいました。

そして時を同じくして、近藤勇や土方歳三も江戸の試衛館道場で剣術に励んでいました。

当時は他流試合や剣術の大会なども催され、好成績を上げる彼らはお互いに名前ぐらいは知っていたのではないかとされています。

しかし、はっきりと「会った」という史料は存在しないので、あくまで推測の域を出ません。

京都で近藤勇や土方歳三が新撰組として活躍していたころには、幕府は坂本龍馬を危険人物とみなしていました。

そのことから坂本龍馬は、新撰組に対して警戒心を持っていたのではないかと思われます。

剣の時代から鉄砲の時代へ

坂本龍馬の海援隊は、外国と貿易をする商社だったという側面を持っています。

実際に坂本龍馬は剣ではなく、拳銃を携帯していたという記述もあります。

土方歳三は函館での最後の戦いまで剣を持っていましたが、鳥羽・伏見の戦いで、土方歳三はすでに「もう刀の時代ではない」と気づいています。

会津戦争で敗北を悟った土方歳三は、榎本武揚率いる海軍の力があれば官軍(新政府軍)に勝てると踏んだのです。

新撰組の中では土方歳三が一番、新しいものに興味を持ち取り入れる人物で、一番最初に髪を切り洋服を着たのも土方歳三でした。

そういう意味では、土方歳三と坂本龍馬の方向性は似通っていたのではないかと推測されるのです。

土方歳三が最後まで刀を手放さなかったのは、新撰組として散っていった盟友たちへの「思い」だったのではないかと想像することも可能です。