土方歳三は下戸だった?新撰組一番の酒豪は誰?

幕末の京都を駆け抜けた新撰組、その隊士達の娯楽といえば花街と酒でした。

ここでは新撰組のお酒にまつわる逸話と、土方歳三は下戸だったのではないかという噂についてご説明します。

酒好きな隊士が多かった新撰組

「音にきこえた新撰組は、いたるところでモテた」
これは新撰組の生き残り隊士である、元幹部の永倉新八が残したとされる言葉です。

試衛館時代、壬生で屯所を構えていた時代、そしてその後も新撰組には常に酒宴がつきものでした。

仕事の成否には関係なく、徹夜のお酒が多かったとされています。

そして実は、飲むと大声を出して騒ぐ、暴れるなど、迷惑な酒でした。

初代局長筆頭・芹沢鴨は酒癖が悪く、酔うと乱暴狼藉を働き、それが行き過ぎて数々の迷惑行為を行ったため粛清されたとされていますが、実は他の隊士達もさんざん京の町に迷惑をかけていました。

実は仕事で戦死した隊士よりも、隊の中で粛清された隊士の数が多いという殺伐とした毎日の中で、娯楽といえば花街に繰り出すことと酒を飲むことぐらいしかなかったのではないかと思われます。

そして、数少ない資料から推察すると、新撰組で一番の酒豪は永倉新八ではなかったかとされる記述が多くみられます。

この頃の酒を当時の醸造法で再現したところ、非常に濃く甘い酒で、とてもそのままでは飲めないものができたとされます。

なので、当時はそれを薄めて飲んでいたのではないかという話も残っています。

酔う前に盃を伏せた近藤勇と土方歳三

酒豪が多かった新撰組の中で、意外なことに局長の近藤勇と副長の土方歳三の二人はあまり酒が強くなかったと伝えられています。

局長・近藤勇は酔う前に盃を伏せたとされており、酒よりも甘いものが好きな大の甘党だったとされています。

また、近藤勇は大食漢でとろろ飯を19杯食べたという逸話も残っているところから、酒を飲むよりも食べる方が好みだったと思われます。

また、土方歳三は辛党で沢庵が大好きでしたが、酒の量はあまり多くなかったと伝えられています。

これは、土方歳三も酒に弱かったという説と、あまり飲まない近藤勇に付き合ったという説がありますが、真実はわかりません。

土方歳三のねぎらいの酒

土方歳三は近藤勇の処刑後、新政府軍と闘いながら蝦夷(今の北海道)までたどり着き、「蝦夷共和国」の陸軍奉行並として活躍します。

わずか130名ほどの小隊で新政府軍を撃退したこともあり、土方が自ら率いた隊は常勝だったと伝えられています。

新撰組時代は冷酷な「鬼の副長」として恐れられた土方歳三でしたが、近藤勇が亡くなった後は隊士達に慕われる采配ぶりでした。

会津でも白虎隊などの少年兵たちと親交を深めたり、少年兵たちの家族にまで気遣いをみせたといわれています。

蝦夷地では、戦いで疲弊しきった部下たちに「酔ってしまってはいけないので、一杯ずつだ」と自ら酒を注いだという逸話が残っています。

隊士達は、土方歳三自ら笑顔で振舞われた酒で、大いに士気が上がったと伝えられています。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする