新撰組の土方歳三は「鬼の副長」と呼ばれていました。
ここでは「鬼の副長」と呼ばれた理由と、新撰組で土方歳三がどのような働きをしていたかをご紹介します。
「バラガキ」と呼ばれていた土方歳三の少年期
土方歳三は多摩の豪農の出身で、幼いころから武士にあこがれていました。
少年期は「バラガキ」と呼ばれ、触ると怪我をしてしまうバラの棘のようなヤンチャな少年だったといわれています。
土方歳三の姉の夫が持つ剣道場に、近藤勇が指導に来ていたことから二人はは知り合い、そして土方歳三は天然理心流に入門します。
年齢も1歳違いの土方歳三と近藤勇はこの頃から非常に仲が良く、後に土方歳三は近藤勇についていく形で、試衛館の8人と共に京都へ行き壬生浪士組を経て新撰組を結成することになります。
土方歳三が「鬼の副長」と呼ばれた理由
近藤勇を局長とする新撰組は、反幕府勢力を取り締まるために作られた組織でしたが、隊士たちは一般庶民で構成されており、なかには町の乱暴者のような人物もいました。
そこで、新撰組の隊規として厳しい掟を設けなくてはならなかったのです。
そして土方歳三はその規律を犯した者には厳しい粛正が必要として、たとえ幹部や仲が良かった者に対しても容赦がなかったとされています。
そのくらい厳しくしないと、烏合の衆であった新撰組をまとめ上げられなかったという背景もありました。
そしてその粛清をトップである近藤勇がするということは、組織にとって決して有益ではなく、ナンバー2の自分が行うのが一番だという理念の下、土方歳三は「鬼の副長」となったと考えられます。
土方歳三が必要以上に厳しく振舞って嫌われ役になり、隊士たちの不満を自分に集め、近藤勇が新撰組をまとめる、という図式が新撰組を強固な部隊にしたのです。
また、近藤勇は局長という立場から屯所を空けることも多く、副長である土方歳三が新撰組の規律を取り締まらなければならなかったという事情も考えられます。
近藤勇処刑後の土方歳三
新撰組当時は「鬼の副長」と恐れられた土方歳三ですが、近藤勇が処刑された後、函館に渡った頃には人が変わったように温和になったと伝えられています。
土方歳三の生涯についての数々の逸話を考え合わせると、鬼と呼ばれるようなような残酷な人間ではなく、元々は責任感の強い優しい人物であったのではないかと考えられます。
新撰組の、そして近藤勇のために敢えて「鬼の副長」となった土方歳三、本当は辛かったのではないかとも推測されます。
特に函館戦争のころの土方歳三は、隊士達から母のように慕われたという話も残っています。
新撰組の隊士から見た土方歳三の人物像として「英才にしてあくまで剛直、しかし歳をとるにしたがって温和になり、皆から慕われた」とあるところからも、土方歳三の本当の性格がうかがわれます。