長州藩士を中心とした過激派な尊王攘夷志士の、京都放火・天皇誘拐の密談が池田屋で行われるという情報を得た新撰組が、そこに踏み込んだが池田屋事件です。
その池田屋事件では、踏み込んだのが近藤勇ら、そして危機になった時に駆け付けたのが土方歳三らと伝えられています。
ここでは、なぜ土方歳三が遅れてきたのか、池田屋事件の顛末についてご説明します。
どうやって新撰組は池田屋事件を察知したのか
新撰組は京都の治安維持のため、京都市中で諜報活動をしていました。
その任務は、諸士調役兼監察である山崎丞・島田魁らが行い、彼らは炭薪商を営む攘夷派志士の枡屋喜右衛門(古高俊太郎)の存在を突き止めました。
店の捜索によって武器屋長州藩との書簡が見つかり、古高俊太郎を捕らえて自白させたところ、長州過激派志士による御所放火・天皇誘拐・将軍暗殺などの計画が進められていることが発覚しました。
そして長州・土佐の尊王攘夷派の志士たちが、池田屋か四国屋で会合を行うことを突き止めました。
また一説によるとその会合は、古高俊太郎や押収された武器の奪回のための襲撃計画であったともされています。
二手に分かれての捜索
会合が行われるのは「池田屋」か「四国屋」との情報を得た新撰組は、鴨川を挟んで二手(三隊といいう説もあり)に分かれて捜索することにしました。
局長・近藤勇率いる近藤隊は、近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助ら約10名。
副長・土方歳三率いる土方隊は、土方歳三・井上源三郎・斎藤一・原田左之助ら約12名。
他にも12名ほどの新撰組隊士が参加していましたが、この隊士達が土方隊だったのか遊撃隊だったのか、また別の隊だったのかは諸説あって詳細は分かっていません。
そして近藤勇隊は木屋町通を、土方歳三隊は近藤隊とは鴨川を隔てた八坂通方面を探索し、近藤隊が池田屋で謀議中の尊王攘夷過激派志士たちを発見しました。
近藤勇隊池田屋へ突入
その時に尊王攘夷過激派の志士たちが何名いたかについては諸説ありますが、概ね二十数名といわれています。
初めに「御用改め」として踏み込んだのは、近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4人で、残りの隊士は屋外を固めました。
屋内に踏み込んだ沖田総司は奮戦しましたが、戦闘中に倒れて離脱、藤堂平助も鉢金がずれたところを斬りつけられて戦線離脱してしまいます。
新撰組隊士は近藤勇と永倉新八の二人となってピンチに陥りますが、ここで別方面を捜索していた土方歳三隊が到着します。
ここで形勢逆転した新撰組は、9名討ち取り4名捕縛の戦果をあげました。
この池田屋事件で数名の尊王攘夷派は逃走しましたが、翌朝、会津間・桑名藩らと連携し、市中掃討の末20名あまりを捕縛しました。
この池田屋事件によって、御所放火などの計画を未然に防ぐことに成功した新撰組の名は、京都のみならず全国に轟いたのです。
偶然ではありましたが、絶妙のタイミングで登場した土方歳三隊によって池田屋急襲が成功したとも推測されます。