新撰組の天才剣士・沖田総司は若くして病で斃れたことで有名です。
ここでは沖田総司の出身や、その生涯をご紹介します。
新撰組入隊前の沖田総司
沖田総司は、陸奥国白河藩藩士で足軽小頭の沖田勝次郎の長男として、江戸の白河屋敷(現在の港区西麻布)で生まれました。
生まれた年に関しては、天保13年(1842年)とされていますが、天保15年という説もあり、日付けも判明していません。
沖田総司は9歳のころ、親戚筋の井上源三郎に才能を見出され、江戸市ヶ谷にあった天然理心流「試衛館」に入門、近藤周助の内弟子になりました。
試衛館に入門して10年経った沖田総司は、その天才的な剣術が高く評価され、塾頭まで務めるようになりました。
その後、近藤勇をはじめとする試衛館道場の門人たちと共に、幕府が募集した浪士組に参加することになります。
そして、京都にて新撰組結成、沖田総司はその剣術の腕を買われて一番隊組長に任命され、数々の戦闘で活躍しました。
池田屋事件前後に発病?
沖田総司の病気は労咳(現在でいう肺結核)とされています。
池田屋事件の際に、討幕派の志士の一人を切り伏せたところで喀血して昏倒したとされており、またこの場面は非常に有名ですが、この時点での喀血には疑問が残るとされます。
池田屋で戦闘中に昏倒した、という記述は数々残されていますが、喀血したという記述は少ないのです。
しかも、喀血するということは労咳が相当進んでいたと考えられることから、それ以前に戦闘に参加するほど元気だったことが不自然になってしまいます。
また、池田屋事件の次の日、そしてその後も戦闘に参加しているという記録が残っていることから、この時点では労咳による喀血ではなく、体調不良だったのではないかと考えられます。
池田屋事件が起こったのは夏、長時間の捜索と戦闘で熱中症のような症状で気分が悪くなったのではないかという推測もされています。
沖田総司の生涯
沖田総司は新撰組の初期にその天才的な剣術で活躍しましたが、慶応3年(1867年)以降は病気で療養する日々が多くなり、戦闘にもほとんど参加していません。
沖田総司は戊辰戦争の初戦となった鳥羽・伏見の戦いには参加しておらず、大阪に移送されたとされていますが、鳥羽・伏見の戦いに向かう途中に何らかの原因で負傷し、大阪に移送される船中で労咳を発症したともいわれています。
新撰組は鳥羽・伏見の戦いに敗れ、その後甲州鎮撫隊として甲府城に向かうのですが、沖田総司は体調不良でこの戦いには参加しませんでした。
それ以後の沖田総司は、幕府の医師で新撰組とも深い交流がある松本良順によって、千駄ヶ谷で療養生活を余儀なくされます。
この頃にははっきりと労咳(肺結核)の症状が伝わっていることから、池田屋事件での喀血の逸話は後に付け加えられたものとも考えられます。
そして近藤勇が捕縛され斬首された2か月後の慶応4年(1868年)に死去、最後まで近藤勇や新撰組のことを心配しつつ亡くなったといわれています。
沖田総司には最期まで、近藤勇の死を伝えられることがありませんでした。
生年がはっきりしないために、享年は24歳、25歳、27歳など、諸説存在します。