新撰組の沖田総司といえば、労咳で斃れた薄命の美少年として知られています。
沖田総司は池田屋事件の時に喀血して倒れたとされていますが、それが本当なのか?
ここでは、池田屋事件の時の沖田総司についてご説明します。
池田屋事件の顛末と沖田総司
元治元年6月5日、近藤勇率いる新撰組は京都木屋町の池田屋で長州過激派の会合を発見し、わずかな人数で踏み込みました。
自分たちと長州過激派の人数の差から、捕縛は無理と睨んで「切り捨て方式」で奥座敷の階段から近藤勇と沖田総司が、そして前座敷の階段から永倉新八と藤堂平助が上がったとされています。
二階の奥座敷で4人と斬り結びながら階下へ降りた沖田総司は、そこで体調が悪くなったと伝えられています。
小説やドラマ・映画などでは、ここで沖田総司が喀血して昏倒ししたと描かれていて、池田屋事件での有名な場面にもなっています。
不利になった近藤隊でしたが、ここで別動隊だった土方歳三らが駆け付け形勢逆転、ここで「切り捨て」から「捕縛」に方針を変えて、戦闘に決着がつきました。
沖田総司は新撰組の中でも若手でしたが、剣の腕は新撰組の中でも1、2を争う実力の持ち主でした。
そして試衛館時代から、沖田総司は近藤勇を敬愛していました。
沖田総司は本当に喀血して昏倒したのか?
史料によると、沖田総司は池田屋で昏倒した・体調が悪くなったとありますが、喀血したという記述は見当たりません。
後に労咳で若くして夭逝したという記述はありますが、池田屋事件の次の日も戦闘に参加しているところを見ると、この時点での喀血はフィクションだったと思われます。
喀血するということは、労咳(肺結核)がかなり進んでおり、その状態で池田屋に踏み込んで斬り合いをすること自体無理があるというのが定説になっています。
それに池田屋の現場は、喀血して昏倒したのであれば、その場で斬られてしまう状況でした。
また、池田屋事件があったのは夏、現場はかなり暑く、熱中症のようなもので気分が悪くなったのではないかとも考えられます。
沖田総司の愛刀は、池田屋の戦闘でかなり刃こぼれしたといわれていますので、沖田総司は離脱せずに奮戦していたと考えたほうが自然かと思われます。
池田屋以降の沖田総司
池田屋事件で喀血して昏倒したとされる沖田総司ですが、翌日もしっかりと新撰組の任務についています。
そして体調を崩して第一線で活躍することがなくなったのは慶応3年以降になります。
それまでは、体調が万全ではなかったにせよ、新撰組隊士として様々な戦闘に参加しています。
新撰組隊士達、そして沖田総司が世話になった蘭方医・松本良順によると、新撰組隊士達は3分の1が何かしらの疾患を抱えていたとされます。
沖田総司と特定はしていませんが、労咳患者も数人いたとされています。
後に沖田総司が労咳を発症して20代後半で亡くなったにしても、池田屋事件当日に喀血するほど病気が進んでいたとは考えられない、というのが現在では定説になっています。