新撰組参謀だった伊東甲子太郎、その衝撃的な最期とは?

伊東甲子太郎は、新撰組の参謀および軍学師範を務めた人物です。

のちに近藤勇らと思想・意見の食い違いによって脱退し、新撰組によって京都の油小路で暗殺されました。

ここでは伊東甲子太郎の衝撃的な最期についてご紹介します。

伊東甲子太郎が新撰組を抜けた理由について

伊東甲子太郎は遊学先の水戸で朱子学(水戸学)を学び、勤王思想に傾倒していくだけではなく、神道無念流剣術を身につけました。

その後江戸で北辰一刀流を学び、道場の師範である伊東誠一郎の婿養子に入って、伊東大蔵から伊東甲子太郎と名前を変え道場主になりました。

新撰組八番隊組長の藤堂平助は、この伊東道場の弟子で、伊東甲子太郎は後に藤堂平助の仲介もあって新撰組に入隊します。

文武両道の伊東甲子太郎は、参謀・文学師範を務め活躍しましたが、後に新撰組を脱退します。

その理由は、近藤勇率いる新撰組と伊東甲子太郎は「攘夷」という点では思想が一致していましたが、新撰組の目的は「佐幕」すなわち幕府側だったのです。

それに反して、伊東甲子太郎は「勤王」すなわち幕府を倒して天皇を尊ぶという「勤王」だったのです。

その思想の違いは徐々に具現化されて、やがて新撰組は分裂そして伊東甲子太郎は新撰組を脱退することになります。

御陵衛士結成

伊東甲子太郎は御陵衛士という主に天皇を警護する団体を結成するのですが、新撰組と敵対するのではなくあくまで薩摩の動向の監視と御陵の警備を担当しました。

この時に御陵衛士に移ったのは、伊東甲子太郎以下、藤堂平助を含む14名とされています。

三番組組長の斎藤一の名もありましたが、これは近藤勇派のスパイだったと伝えられています。

御陵衛士と新撰組は交流を持ってはならないという約束が交わされており、それを知らなかった新撰組隊士が御陵衛士受け入れを拒否され、脱走とみなされ処分されたケースも存在しています。

五番隊組長の武田観柳斎も御陵衛士入りを断られた一人です。

伊東甲子太郎の最期(油小路事件)

1867年12月、伊東甲子太郎は近藤勇の妾宅で接待を受け、酔って帰途についたところを京都油小路の本光寺門前で、新撰組隊士の大石鍬次郎ら数名に襲われ暗殺されてしまいました。

その後伊東甲子太郎の遺体は、御陵衛士を誘い出すための囮として放置され、新撰組隊士らはその周りに伏せて御陵衛士を待ちました。

そして遺体を引き取りに来た御陵衛士たちを粛清、この中には新撰組結成以来の盟友・元八番隊組長である藤堂平助も含まれていました。

伊東甲子太郎らの遺体はしばらくその場に放置されていましたが、その後壬生の光縁寺に埋葬され、その後実弟の鈴木三樹三郎らによって戒光寺に改葬されました。

油小路事件の発端は、御陵衛士が幕府に敵対していた長州藩に対して寛大な処分を求めた建白書を提出したことに、近藤勇ら新撰組が激怒したからとされています。

倒幕の思想を持つ長州藩を厳罰に処するべきとする近藤勇らは、そのことに反発し、油小路事件に至ると伝えられています。

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