戊辰戦争で、新撰組の生き残りを率いた土方歳三の行動とは?

戊辰戦争とは、王政復古後明治政府を立ち上げた薩摩・長州・土佐藩らを中心にした新政府軍と、旧政府軍が戦った各地の内戦の総称です。

土方歳三は新撰組として旧幕府勢力に加担して、最終決戦の函館戦争まで戦い抜きました。

ここでは戊辰戦争の推移と、での土方歳三の行動をご紹介します。

戊辰戦争勃発当時の新撰組と土方歳三

慶応4年1月3日、鳥羽伏見の戦いの開戦によって戊辰戦争が始まりました。

新撰組は伏見奉行所に布陣、その時の新撰組は約150人で隊を率いたのは土方歳三でした。

この頃、局長である近藤勇は、軍議の帰り道で受けた狙撃によって肩を負傷しており、大阪で療養していました。

土方歳三率いる新撰組は、永倉新八の突撃などによって奮戦しましたが、最終的には敗戦し伏見奉行所は炎上してしまいます。

その後、傷の癒えた近藤勇は大阪城へ登城し、幕府に再出陣を要請し、一度はそれに応じた徳川慶喜でしたが、次の朝徳川慶喜は船で江戸へ向かってしまいます。

それを聞いた近藤勇ら新撰組は茫然とし、失意のうちにそれでも江戸に向かうことにしたのですが、道中富士山が見えるあたりで、浪士組を結成し京都へ向かった時の事が夢のようだ、という言葉を残しています。

新撰組崩壊

剣術での戦闘集団である新撰組は、銃や大砲を使った近代戦について行けなかったといわれることがありますが、新撰組もそれをわかっていたと思われます。

旧幕府軍や新撰組も近代戦の調練を取り入れており、接近戦や屋内戦であれば新撰組の剣術も充分な力を発揮できました。

戊辰戦争で旧幕府軍が次々と敗退していったのは、兵力や装備の差はありましたが、それ以上に総大将である徳川慶喜に全く戦う気がなく逃げることばかりだったことに起因すると推測されます。

現に、新政府軍も戦争に向けての財政はかなり苦しかったとの史料も存在します。

江戸で恭順を決めた徳川慶喜は、会津藩と桑名藩の登城を禁止し、一方では助命の嘆願をしました。

会津藩登城禁止ということは、幕府のために戦いたいという新撰組を拒否したということです。

勝海舟は新撰組を甲州の鎮撫に向かわせ、幕府直轄領である甲府を新政府より先に抑えるように命じます。

甲州鎮撫隊として意気揚々と甲府に向かう新撰組でしたが、甲州勝沼で新政府軍に先んじられ大敗を喫してしまいました。

この敗戦後、意見の食い違いから古参の隊士である永倉新八、原田左之助らが袂を分かつことになってしまいます。

土方歳三はこの後、会津での次の戦闘に向けて援軍を求め江戸へ向かいますが、この間に近藤勇は新政府軍に捕縛され処刑されてしまいました。

近藤勇が自ら出頭した後、土方歳三は近藤勇の助命嘆願に奔走したと伝えられています。

近藤勇処刑の後すぐ、沖田総司が療養先で病没、崩壊していく新撰組の中でも土方歳三は戦い続けます。

土方歳三、最後の地函館へ

その後土方歳三は宇都宮戦争、会津戦争を経て蝦夷地へ向かいます。

新撰組では鬼の副長と呼ばれ恐れられていた土方歳三でしたが、この頃から指揮官の才能を発揮するようになり、部下を魅了する采配ぶりをみせるようになりました。

会津戦争の敗戦で会津藩が降伏間近になり幕臣たちがさらに北へ向かおうとしますが、新撰組隊士である斎藤一は会津藩に残ります。

そして仙台での戦いでも仙台藩が降伏、土方歳三らは決戦の地である函館を目指します。

土方歳三は新撰組の盟友が次々と離脱する状況になっても、最後まで戦い抜きました。

土方歳三は函館で銃弾に斃れるまで、近藤勇に託された新選組の「誠」の意思を最後まで貫いたのではなかったのではないかと考えられます。

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