山南敬助は、新撰組の総長として隊士達から信頼されていた人物です。
その山南敬助の衝撃の死因、そしてその時の山南敬助の覚悟とはどんなものだったのか、残された資料を基にご紹介します。
「武人にして文あり」といわれた山南敬助
山南敬助は、近藤勇が道場主を務める試衛館道場に他流試合を挑み、近藤勇に敗北、その時近藤勇の剣の腕と人格に惚れこんで、その後行動を共にすることになります。
その後近藤勇らと浪士組に参加し、新撰組の中では総長まで務め、隊士達からの信頼も厚い人物でした。
山南敬助は武芸一本やりの隊士が多かった新撰組の中で、世情にも詳しく物事の筋道もよく理解している貴重な人物でもありました。
また、温厚で優しかったと伝えられており、壬生の人々からも慕われました。
新撰組からの脱走
新撰組が大きくなるにしたがって、局長・近藤勇と山南敬助の思想の違いが少しずつ大きくなっていきました。
それが脱走の一番の原因と考えられますが、決断するきっかけの一つとして、伊東甲子太郎という人物が関わってきます。
伊東甲子太郎は勤王派で、山南敬助と同様世の中の動きをよくわかっている人物でした。
しかも、その伊東甲子太郎が新撰組参謀に就任したのに対して、山南敬助は閑職ともいえる総長のまま。
そして壬生の屯所では手狭になってきたことから、西本願寺に屯所を移動することになったのですが、山南敬助はそのことに対しても不満を持ったと考えられます。
それは、西本願寺は伝統ある勤王派の寺なのですが、新撰組はその境内で砲撃の練習など、寺の僧侶たちの意向を無視した行動に走ります。
そういったことが重なり、山南敬助は近藤勇そして新撰組に見切りをつけて脱走したと推測されます。
山南敬助、覚悟の切腹
新撰組において脱走は重大な隊規違反となり、たとえ古参の副長である山南敬助であろうと切腹しなければなりません。
ですので、山南敬助の新撰組脱走は、切腹覚悟のものだったと思われるのです。
しかも、追手である沖田総司にいとも簡単に大津宿で捕まったことから、連れ戻されることを想定しての行動ともみられます。
山南敬助にしてみれば、今まで尊敬して従ってきた近藤勇や土方歳三に対して、身をもって抗議した行動だったのではないかとも推測されます。
世の中が大きく流れている中で、新撰組は相変わらず武力だけで、また内部では粛清が繰り返されている現状が、山南敬助にとって我慢のならないものになったのではないかと考えられます。
山南敬助にとって新撰組が大切なものであったからこそ、すぐに見つかるような脱走・隊士達の前での切腹という方法をとった、それが山南敬助の覚悟だったのではないかと思われます。