新撰組組長・山南敬助は、新撰組副長・土方歳三との意見の対立によって逃亡、そして切腹したと伝えられています。
山南敬助と土方歳三、本当に考え方の違いによって対立していたのでしょうか?
ここでは様々な資料を元に、その真偽を検証し解説していきます。
岩城升屋事件
浪士組(後の新撰組)当時の山南敬助と土方歳三の関係に関しては、どの資料を見ても「仲が良かった・仲が悪かった」という記述は見当たりません。
ただ一つ、文久3年10月に、将軍徳川家茂の警護のために新撰組が大阪に滞在中に起きた岩城升屋事件という注目すべき事件があります。
呉服商である岩城升屋に不貞浪士が押し入り、山南敬助と土方歳三は岩城升屋に急行して、激戦の末に不貞浪士を撃退しました。
この時に山南敬助が使った「播州住人赤心沖光作」の銘の入った刀が折れてしまいました。
この刀の押し型は土方歳三の手で、多摩郡の新撰組の支援者である小島鹿之助に送られ、現在でも保存されています。
そしてこの戦闘の時に、山南敬助は左腕に負傷したと伝えられており、土方歳三は負傷して刀も折れた山南敬助をかばって奮戦したと伝えられています。
この事を考えると、この頃の山南敬助と土方歳三は新撰組の盟友として、決して仲たがいはしていなかったと推測されます。
山南敬助が新撰組を脱走した理由とは
山南敬助と土方歳三は、新撰組が大きくなるにつれて組の運営方針や思想を巡って対立するようになっていきます。
池田屋事件の時には山南敬助は参加しておらず、留守番を命じられたことが不満だったともされています。
その頃新撰組の方針は、局長である近藤勇ではなく事実上副長・土方歳三が決定していました。
また、途中で入隊した伊東甲子太郎を、山南敬助より上の役職である参謀に就任させ、山南敬助は総長という名前だけの閑職だったことも不満に思っていたともいわれています。
山南敬助は、自分の行き先を示唆する書き置きを残し屯所から脱走してしまいます。
新撰組隊規では、脱走は隊規違反、有無を言わさず切腹です。
近藤勇と土方歳三は、沖田総司に後を追わせ、大津宿にて捕縛、屯所に連れ戻されました。
その後伊東甲子太郎や永倉新八に逃亡しろと言われても、山南敬助は自分の死を受け入れたといわれています。
当初は尊王攘夷そして公武合体派として活動を始めた新撰組が、だんだん尊王攘夷過激派を征伐するだけの任務になっていくのが、山南敬助にとっては本意ではなかったのではないかと推測されます。
文武両道で様々な勉強をしていた山南敬助にとって、新撰組の存在が「幕府も天皇も尊重して攘夷をめざす」という目的でなくなってしまったことが許せなかったと考えたともされています。
山南敬助が切腹の際に、土方歳三に向かって「九尾の狐」とののしったという話も残っていますが、この逸話の真偽のほどはわかっていません。
他にも、山南敬助脱走そして切腹の理由として、土方歳三との対立は関係なく、岩城升屋で受けた傷が悪化して体を壊し、戦えるような状態ではなくなってしまったことが原因だったとされる説も存在しています。
山南敬助の突然の脱走そして切腹が、土方歳三との不仲が原因だったのかそうではなかったのか、現在でもはっきりとした確証はありません。