新撰組総長・山南敬助は新撰組の中で信頼の厚かった人物です。
ここではその山南敬助の伝えられている人物像、そして山南敬助の子孫は存在するのかについてご紹介します。
近藤勇に感服して行動を共に
山南敬助は天保4年(1833年)、仙台藩の生まれといわれていますが確証はありません。
江戸へ出て小野派一刀流の免許皆伝となりその後北辰一刀流・千葉周作の門人となりました。
近藤勇が道場主を務める、天然理心流・試衛館に他流試合を挑み近藤勇に敗れたことから、近藤勇の腕前や人柄に心酔して試衛館道場の門人たちと行動をともにするようになりました。
その後、山南敬助は浪士組として近藤勇らと参加して上洛、そして新撰組に加わり、副長・総長に就任しました。
山南敬助の姓は「やまなみ」とも「さんなん」とされており、「やまなみ」の方が一般的になっていますが、本人の署名に「三男」「三南」としたものも残されているため、「さんなん」の可能性もあるといわれています。
文武両道の「サンナンさん」
山南敬助は、剣のことに関しては厳しかったといわれていますが、心優しく温厚な性格でした。
普段は温和で、壬生に滞在していたころは近所の女性や子供達から「サンナンさん」と慕われており、「親切者は山南、松原」などという言葉が伝わっていました。
また山南敬助は文武両道で、新撰組の援助をしていた小島鹿之助は「武人にして才あり」と評していました。
新撰組が西本願寺に屯所を構えた時、西本願寺の人々は新撰組に対して良い印象を持っていませんでしたが、その西本願寺の住職も「山南敬助は物事の筋道を理解している者」と述べていました。
背はあまり高くなく色白で愛嬌のある顔、と伝えられており、子供好きだったともいわれています。
江戸で浪士組を結成した時も、山南敬助が発起人である清川八郎と近藤勇らを結び付けたという説があるように、山南敬助は世の中の動きに精通していたものと推測されます。
山南敬助・新撰組脱走そして切腹、子孫はいるのか?
山南敬助は、近藤勇を頂点とし土方歳三が副長として厳しい規律の元に粛清を重ねることから、考え方の違いが見えてきたと思われます。
しかし近藤勇を尊敬していたことや、隊規は順守されなければならないという考えから、新撰組を脱走するもすぐに捕まり連れ戻されたと考えられます。
脱走した時点で、山南敬助はすでに切腹を覚悟していたように思われるのです。
また、戦闘で斬られた傷が元で健康を害したので新撰組を脱退したかった、という説も残っています。
実際、池田屋事件には参加していませんし、その後も主だった戦闘には名前がないことから、すでに体調が悪かったのではないかとも見られています。
山南敬助は、新撰組屯所の一つであった前川邸の間で切腹、その姿を「浅野内匠頭もこうはいかなかったであろう」と近藤勇が称賛したという逸話が残っています。
山南敬助は、出自に関しても確かな資料が残っていませんし、結婚したという話も残っていないことから、子孫はいないものと思われます。