新撰組総長・山南敬助は仙台藩の出身といわれています。
ここでは出身地とされる仙台から、亡くなった京都まで、山南敬助のゆかりの地をご紹介します。
仙台から江戸へ
山南敬助は仙台藩の出身とされていますが、生い立ちに関しては不明なところが多く、仙台藩を脱藩して江戸に出たとだけ伝えられています。
山南という姓は珍しい苗字でもあり、伊達政宗の重臣に山南靱負という人物がいたことから、その子孫ではないかという説もあります。
そういった曖昧な背景から、仙台には山南敬助のゆかりの地は存在していません。
山南敬助が20歳ごろには江戸にいたという直筆の証拠が存在することから、30歳前後で試衛館のメンバーと共に京都へ行くまでは、江戸にいたと推測されます。
山南敬助、江戸でのゆかりの地
山南敬助が近藤勇と出会う前に北辰一刀流を学んだのが、大久保道場です。
大久保道場は現在の千代田区西神田にあり、東西線・半蔵門線・都営新宿線の九段下駅から歩いて5分ほどの場所になります。
この場所は当時、江戸城にも近く賑わいを見せた場所であったと考えられ、大久保道場の近くには講武所や新徴組の御用屋敷など、幕府直営の建物もありました。
そして山南敬助は近藤勇と出会い、近藤勇に負けたことから剣術の腕と人柄に惚れこみ、近藤勇の試衛館道場に食客として住むことになります。
万延2年(1861年)に、山南敬助が日野での新年の稽古に参加したという記録が残っていることから、1850年台後半には、近藤勇の天然理心流の門人となったと推測されます。
試衛館跡は現在の新宿区にあり、現在は試衛館跡という碑だけ残っています。
そして山南敬助ら試衛館メンバー8人が浪士組に参加したときに集まったのが、伝通院です。
伝通院は文京区小石川にある浄土真宗の寺で、小石川伝通院ともいい、徳川将軍家の菩提寺となっています。
山南敬助終焉の地・京都壬生村
山南敬助は新撰組脱走の廉で、京都の壬生屯所・前川邸で切腹しました。
その後、懇意にしていた光縁寺の住職によって他の新撰組隊士数名と共に光縁寺に葬られました。
京都には新撰組のゆかりの地がたくさんありますが、新撰組の前身である壬生浪士組のころに屯所を構えた壬生界隈が、一番新撰組とゆかりの深い地です。
山南敬助が眠る光縁寺、壬生屯所後、壬生寺など、いずれも歩いて回れますので、京都での新撰組ゆかりの地を辿る人気スポットとなっています。
また2007年3月11日に、旧前川邸で山南敬助を弔う「山南忌」が行われました。
山南敬助が切腹した部屋での焼香などの行事も催され、これは新撰組隊士個人を弔う催しとして、近藤勇、土方歳三、沖田総司、斎藤一についで5人目のものとなりました。