山南敬助と坂本龍馬、同じ北辰一刀流として交流はあったのか?

新撰組の山南敬助、海援隊の坂本龍馬、剣術は共に北辰一刀流です。

ここでは、山南敬助と坂本龍馬の間には交流があったのか?について、様々な資料から考察していきます。

北辰一刀流・二つの千葉道場

北辰一刀流の創始は、千葉家伝来の北辰流である北辰夢想流と一刀流を、千葉周作が統合して北辰一刀流としたものです。

千葉周作は江戸の日本橋品川町に「玄武館」という道場を建て、幕末期には門人の数が6千人を超すほどに発展しました。

また、千葉周作の弟の千葉定吉の道場も「桶町千葉」として名を知られていました。

山南敬助は、後にお玉が池に移転した千葉周作の道場「玄武館」で稽古、そして坂本龍馬は「桶町千葉」の方でした。

「桶町千葉」は「小千葉」と呼ばれており、坂本龍馬がこの道場に通っていたことは確実視されていますが、両方に通っていたという説もあります。

他方で、史料で明らかになっているのは、坂本龍馬は佐久間像山道場に入門しており、彼が一番学びたかったのは剣術ではなく西洋流の砲術だったということです。

玄武館も桶町千葉も、幕末期には数千人を超える門弟がいたことから、両者に交流があったとの史料は見当たりません。

山南敬助と坂本龍馬、両者の書簡でもそのことに触れたものは残っていないことから、面識はなかったとみるのが自然かと思われます。

新撰組・伊東甲子太郎と坂本龍馬

山南敬助と坂本龍馬は面識がなかったと思われますが、坂本龍馬と新撰組の伊東甲子太郎とは面識があったとされています。

そして坂本龍馬の思想と伊東甲子太郎の思想には共通するものがあり、伊東甲子太郎は海援隊のような組織を目指して新撰組を脱退したとも考えられています。

伊東甲子太郎と山南敬助は、同時期に新撰組に所属していました。

後に油小路で近藤勇らによって暗殺されてしまう伊東甲子太郎ですが、彼は博識で考え方も先進的でした。

近藤勇ら新撰組を中心に描かれた小説やドラマなどでは、伊東甲子太郎は裏切者扱いをされることが多いのですが、実は伊東甲子太郎は容姿端麗で博識、そして剣術の腕も確かな人物でした。

伊東甲子太郎は、尊王攘夷の思想とともに国を豊かにすることが大切だという、坂本龍馬と似た思想を持っていました。

伊東甲子太郎は新撰組に入隊し、「参謀」の地位を得たことによって、山南敬助の「総長」がただの閑職になってしまいましたが、実は山南敬助の思想は、伊東甲子太郎と共通する部分が多かったのです。

あくまで推測ではありますが、千葉道場同士の大会や、伊東甲子太郎との繋がりを考えると、山南敬助と坂本龍馬が会っていた可能性は完全には否定できないとも推測されます。

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