斎藤一の激動の生涯、彼の性格や魅力とは?

新撰組三番隊長斎藤一、新撰組の中でもトップクラスの実力だったとされる彼の生涯は、「己の信じる正義」を貫いたものでした。

ここでは斎藤一の生涯と、その性格や魅力についてご紹介します。

斎藤一の出自と新撰組時代

斎藤一の出身地は江戸で、父が明石出身だったことから「明石浪人」を名乗っていました。

19歳のころ、江戸の小石川で旗本と諍いを起こし、旗本を斬ってしまうという事件を起こしてしまいます。

そして父の友人である道場主の下に身を隠し、そしてその道場の師範代を務めるほどの実力でした。

文久3年(1863年)近藤勇ら13人が新撰組の前身となる壬生浪士組を結成した時に斎藤一は新撰組に入隊したと伝えられていますが、少し遅れて新撰組が隊士募集を行った際に入隊したという説もあります。

新撰組内の幹部の選出に当たって、斎藤一は20歳にして副長助勤に抜擢され、その後の組織再編成の後は三番隊組長となり、撃剣師範を務めました。

池田屋事件での活躍は有名ですが、新撰組内部では多くの粛正役を務めたとされており、暗殺などの汚れ役も引き受けたとされています。

大政奉還の後、新撰組は旧幕府軍に従って戊辰戦争に参加、鳥羽・伏見の戦いから甲州勝沼の戦い、そして会津戦争まで常に前線で戦いました。

旧政府軍は会津で敗北し、会津藩が降伏した後も斎藤一は戦い続け、松平容保が派遣した使者の説得を受けてようやく投降したとされています。

斎藤一は降伏後捕虜となった会津藩士たちと共に謹慎生活を送りました。

戊辰戦争後の斎藤一、そして晩年

斎藤一は謹慎生活中に一回の結婚離婚を経て離婚、その後松平容保を仲人とし、元会津藩大目付である高木小十郎の娘・時尾と再婚しました。

この結婚を機に、時尾の実家の姓である藤田を名乗り、藤田五郎と改名しました。

その後東京に移住し、警視庁に採用され警察官となって西南戦争でも切り込み隊長として奮戦したとされています。

また警視庁内でも、撃剣大会において好成績を上げたとも伝わっています。

警察官を辞めてからの斎藤一は、東京高等師範学校附属東京教育博物館看守として、同校の撃剣師範として剣術を教えました。

その後、東京女子高等師範学校の庶務掛兼会計係として勤務、その際には生徒の登下校の際の人力車の交通整理を行ったとも伝えられています。

斎藤一の性格は?そしてその魅力とは?

性格は、普段はおとなしく無口でしたが、剣をふるうと人が変わったように突進する人物だったと伝えられています。

斎藤一は一貫して「己の信じる正義」に準じた人物だったと思われます。

新撰組の隊士だったころに粛清・暗殺といった汚れ役を黙々とこなしたとされていますが、それは隊規を破った者へ「正義」を通したと考えられる行動です。

そして戊辰戦争では旧政府・会津藩への恩義を最後まで通して戦い続けました。

警察官になったことに関しては、生活のためという理由もあったと思われますが、戊辰戦争において旧幕府軍の敵であった薩長に対して一矢報いたいという思いも強かったのではないかと考えられます。

斎藤一は生涯たくさんの人間を斬りましたが、それは一貫して己の正義を貫いた、そこが彼の大きな魅力だと思われます。

そして晩年は子供達に武士の心得や剣術を教え、自分自身も最期まで折り目正しい老人であったと伝えられています。

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