乱暴狼藉の末、新撰組内部の隊士によって粛清された芹沢鴨は、新撰組を結成する前に天狗党という団体に所属していました。
ここでは芹沢鴨が所属していた天狗党と、幕末史上での一大事件である天狗党の乱についてご紹介します。
芹沢鴨と天狗党
芹沢鴨は水戸藩(今の茨城県)出身で、本名は下村嗣次といいます。
芹沢鴨という名は、生地である芹沢村からとったといわれていますが、出自に謎が多い人物で郷士の次男か三男だったとされています。
また、神官だったこともあり、医学にも通じていたという説もあります。
下村嗣次は神道無念流の師範で、新撰組に参加する前は天狗党という団体に所属していました。
この天狗党というのが、尊王攘夷の思想の名のもとに、暴力行為や略奪・盗みなどを行っており、評判は最悪でした。
天皇を尊び日本を諸外国の侵略から守るという名目の天狗党は、尊王攘夷思想の出発の地ともいうべき水戸藩で、この運動の中心的存在でした。
その当時幕府は攘夷に反発する勢力が多かったことで、芹沢鴨ら天狗党の幹部らは拘束され、死刑を言い渡されました。
思想的な問題だけではなく、下村嗣次らの乱暴狼藉も拘束の理由だったと伝えられています。
しかし、この頃は幕末の激動の時期で、政府の方針転換や世論を受けて下村嗣次らは釈放されました。
釈放から2か月後、水戸藩を脱藩した下村嗣次は清川八郎の将軍警護募集に、芹沢鴨と名前を変えて新見錦ら同郷の仲間たちと共に参加します。
そして近藤勇ら他の浪士たちと合流、京都へ向かうことになります。
天狗党の乱
1864年3月、藤田小四郎を中心とした天狗党は、同じく尊王攘夷派の桂小五郎の援助を受け、攘夷の実行を幕府に促すために筑波山で挙兵しました。
その後、徳川慶喜を通じて朝廷に尊王攘夷を訴えるために上洛しますが、敵対する諸藩が街道を封鎖したために越前へ迂回せざるを得なくなります。
しかし現在の福井県で追討軍の包囲網の中で孤立してしまい、更に実は徳川慶喜が追討軍の指揮をとっていたこともあって、天狗党は降伏、50日あまりの行軍は終わりました。
降伏の結果捕まった天狗党の数は800人以上、そのうち幹部をはじめ352人が斬首、他は流罪・追放などの処分を受けました。
さらに、天狗党が降伏したことが水戸に知られたことによって、水戸藩内にいた天狗党の家族も次々に処刑されれうという悲劇が起きました。
水戸藩の尊王攘夷思想は、1800年代に尊王論を説いた藤田幽谷が実践的な政治論を示し「水戸学」の基礎を作り、それに基づいて広まりました。
水戸学の発展によって多くの学者を輩出した水戸藩でしたが、この悲劇の内乱によって多くの有能な人材が失われてしまい、明治政府で要職に就いた者の中に水戸藩出身の者は一人もいませんでした。