山南敬助は、陸奥国仙台藩出身の新撰組総長です。
ここではその山南敬助や、他の新撰組隊士が眠るお墓についてご紹介します。
新撰組総長・山南敬助とは
山南敬助は陸奥国仙台藩出身で、一説には伊達政宗の重臣・山南靱負の子孫とも伝えられていますが、確実な記録は残っていません。
仙台藩を脱藩し江戸へ出て、小野派一刀流の免許皆伝となり、後に北辰一刀流の門人となりました。
山南敬助は剣術のみならず、柔術の名手ともいわれています。
山南敬助が近藤勇の天然理心流の剣術道場・試衛館に他流試合を挑み、近藤勇に敗れたことから交流が始まりました。
その後、京都での浪士組結成に際して近藤勇らとともに志願し上洛、発起人である清川八郎が攘夷の実行を掲げて江戸に帰還するも、山南敬助は近藤勇や芹沢鴨らと京都に残りました。
剣術だけではなく世情にも詳しく学があった山南敬助は、その後新撰組で総長として活躍しました。
山南敬助の最期
総長の座にまでついた山南敬助ですが、後に土方歳三らと意見を異にして脱走してしまいます。
新撰組での脱走は隊規違反となり、隊規違反は切腹という罰が待っていました。
山南敬助は脱走したもののすぐに見つかっており、これは本当に脱走する意思がなかったものと考えられます。
つまり、脱走を決意した時点で、はすでに切腹を覚悟していたのではないかと思われる行動でした。
そして山南敬助は1865年2月23日に屯所・前川邸で切腹、介錯は山南の希望によって沖田総司が務めました。
山南敬助の墓所は、新撰組屯所がある壬生村の近くにある光縁寺にたてられました。
壬生村の光縁寺
光縁寺は浄土宗の寺で、知恩院の末寺にあたります。
光縁寺の門前近くに新撰組の馬小屋があったことから、当時は新撰組の隊士達が門前を往来していました。
光縁寺の山門の瓦に山南家と同じ家紋があったことから、当時の住職と山南敬助の間に親交が生まれたといわれています。
また、当時の住職・良誉上人が山南敬助と同い年であったこともあり、とても仲良くしていました。
その縁で、良誉上人は山南敬助をはじめ粛清された他の隊士達を弔い、墓を建てたとされています。
光縁寺には他にも、松原忠治・櫻井勇之進などのお墓もあり、油小路事件で命を失った伊東甲子太郎・藤堂平助も当初は光縁寺に葬られましたが、その後戒光寺に改葬されました。
また光縁寺には「沖田総司縁者」というお墓があり、そこには沖田総司の恋人が葬られているといわれていますが、一説では山南敬助が亡くなる前に懇意にしていた芸妓・明里のお墓であるともいわれています。
山南敬助は、明里の面倒を沖田総司に頼んで切腹したとされており、沖田総司はその遺言通り最後まで世話をし、この地に葬ったのではないかという逸話が残っています。