新撰組総長・山南敬助は、新撰組の中でも文武両道の人物でした。
ここでは、その山南敬助の性格や、人となりに関する逸話をいくつかご紹介します。
やまなみ?さんなん?
山南敬助の名字は、「やまなみ」と「さんなん」と二通り伝わっています。
大河ドラマでは「やまなみ」でしたし、一般的には「やまなみ」として知られていますが、本人の署名に「三南」「三男」としたものが残されているために、「さんなん」の可能性も高いといわれています。
山南敬助は仙台藩を脱藩して江戸へ来たと伝わっていますが、生い立ちに関しては不明なことが多く詳しいことは分かっていません。
江戸では小野派一刀流の免許皆伝となり、後に北辰一刀流の千葉周作門人となりました。
千葉道場では、千葉周作に直接稽古をつけてもらったほどの腕前で、新撰組の中でも剣術で一目置かれる存在でした。
山南敬助の性格とは
幕府の浪士募集に近藤勇らと参加して京都に行ったのは、山南敬助31歳の時でした。
農村出身の血気盛んな若者たちの多い浪士組において、学問もよくでき面倒見の良い山南敬助は、皆から頼られる存在であったとされています。
屯所が置かれた壬生では、山南敬助は子供が好きで、どこで会っても声をかけたという話が伝わっています。
新撰組の中では「親切者は山南・松原」といわれ、粗暴な隊士が多かった新撰組の中でも優しい人物として知られていました。
「新撰組遺聞」には、芹沢鴨らと違って、隊内の者にも壬生界隈の者にも評判が良かったという旨の記述も残っています。
また、屯所として寄宿した西本願寺の住職も、他の新撰組隊士達に対しては酷評していましたが、山南敬助に関しては「物事の筋道がわかる人物だった」と高評価をしていました。
容姿に関しては、背はあまり高くなく、色白の愛嬌のある顔だったと、寄宿していた八木邸の八木為三郎が後年記述しています。
短気で物申す人物だったともいわれる山南敬助
穏やかで親切者だったと伝えられている山南敬助ですが、短気ではっきりと物を申す人物だったとも伝えられています。
浪士組上洛の際に、目付け役に「貴公の組は乱暴で迷惑だ」と注意され、それに対して激高したと伝えられています。
仲間のために自ら目付に対して、一歩も引かずに抗議した山南敬助ですが、取締役の山岡鉄舟の仲裁で見付が謝ると、山南敬助は笑顔になり承諾したという逸話が残っています。
また八月十八日の政変で御所の警備に出る際に、近藤勇や土方歳三がすでに戦支度をしているのに対し、山南敬助は自分の甲冑が調達されなかったことに対して、烈火のごとく立腹したとも伝えられています。
優しいながらも、筋が通らないことに対してははっきりと物を言う山南敬助。
その山南敬助が脱走して切腹することになった理由については確実な史料がなく、現在でも解明されていません。