新撰組一番隊組長、天才剣士といわれた沖田総司は若くして病気で亡くなりました。
ここでは沖田総司の病気と死因についてご紹介します。
池田屋事件の際に発病?
沖田総司は、新撰組が池田屋に踏み込み、不逞浪士との乱闘中に喀血して昏倒したという話が有名になっています。
しかし、この時点で体の不調を訴えたという記述は残っているものの、喀血したという事実は伝わっていません。
この池田屋事件で喀血したというエピソードは、後に沖田総司が労咳(肺結核)で亡くなったという話から遡って、より劇的にするために付け加えられたフィクションだというのが一般的な見解になっています。
喀血するほど病気が進行しているとしたら、池田屋事件のような重要な任務に就くのは不自然ですし、次の日も普通に任務に就いていることから、この時点ではまだ労咳は発病していなかったのではないかというのが、現在では定説になっています。
ただ、池田屋事件の際に昏倒したとされる記述が残っていることから、戦闘中に体調を崩した可能性は充分考えられます。
池田屋事件が起こったのは夏のことでしたので、狭い場所での長時間の戦闘によって熱中症・脱水症状、または貧血のような状態だったのではないかとされています。
沖田総司の病気
沖田総司の病気は、労咳、今でいう肺結核だったとされています。
肺結核とは主に結核菌から引き起こされる感染症で、当時は不治の病とされていました。
当時はまだ、肺結核の特効薬が発明・開発されていない時代でした。
同時代では、倒幕志士である高杉晋作は喀血してから9か月後、歌人である石川啄木も発病から約一年後に労咳で亡くなっています。
そのことを考え合わせても、沖田総司は池田屋事件の時に喀血するほど病気が進行していたとは考えられないのです。
沖田総司の発病と最期
慶応3年以降に沖田総司は、体調が悪化したことによって第一線で活躍することがなくなりました。
慶応4年に始まった鳥羽・伏見の戦いには沖田総司は参戦しておらず、大阪に移動する最中に発病したという説が有力になっています。
沖田総司は、甲陽鎮撫隊として新撰組と共に甲府へ向かう予定でしたが、それも体調不良のために叶いませんでした。
それ以後は江戸で、幕府の医師で新撰組との関わりの深い医師・松本良順の元で治療・療養を続けることになります。
江戸にも戦火が及んできたことから、当時まだ自然が豊かだった千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅に転地療養、しかし病状はますます重くなり、最期まで近藤勇を気遣いつつ、慶応4年に沖田総司は夭逝しました。
近藤勇が斬首されてから二か月後の死ですが、沖田総司は最期まで近藤勇の死を知らされずに旅立ったといわれています。