新撰組草創期の幹部、新見錦の性格

新撰組がまだ「壬生浪士組」だった時代に、近藤勇と芹沢鴨と並んで局長職に就いていた新見錦。

新見錦は、近藤勇や芹沢鴨に比べて知名度は低いですが、新撰組創設や芹沢鴨暗殺事件などに深く関わった人物です。

ここではその新見錦について、伝えられている資料を元に、性格や人となりをご紹介していきます。

新見錦とは

新見錦は、天保7年(1836年)生まれで水戸藩出身といわれていますが、出自や前半生に関する記録や文献がほとんどないことから、詳しいことは分かっていません。

時期は不明ですが、神道無念流免許皆伝を授かった腕だといわれています。

歴史家の間では、新見錦というのは変名で、本名は「新家粂太郎」だったとする説が有力になっています。

新見錦は、同じ水戸藩出身の芹沢鴨と行動を共にし、近藤勇・土方歳三らのいわゆる近藤派と対立、文久3年(1863年)に切腹させられました。

新見錦ついて記された資料としては、新撰組の永倉新八の「新撰組顛末記」などがあり、そこには、新見錦は酒癖が悪く乱暴者だったとされています。

京都府立総合資料館所蔵の旅籠「万屋」の借用書に、水戸藩浪士3人が金8両を借り3人の連署の中に「新家粂太郎」という名が記されています。

幕末史の研究者によると、万屋は水戸藩と繋がりのあった旅籠で、この借用書の新家粂太郎は新見錦だったのではないかと推測されるとのことです。

また、水戸史のなかで「新見」も「新家」も「にいのみ」と読むという記述があることから、出自や前半生がいまだに謎なのは、新見錦が水戸にいたころには新家粂太郎という本名を名乗っていたからなのではないかとされています。

また、壬生寺の墓碑に記された「田中伊織」が新見錦だったのではないかという説もあります。

酒癖が悪く乱暴者だった新見錦

幕府の浪士組の募集に芹沢鴨と共に応じて江戸、そして京都に向かった新見錦は、この頃から新見錦と名乗ったと推測されています。

新見錦はこのころから、隊の中で主に金策に奔走し、たびたび問題を起こして謹慎処分を受けていました。

新見錦は「遊びに耽って隊務を怠り、たびたび民家を襲って恐喝し、隊費と称し金品を奪っている」とも伝えられていました。

しかし、酒さえなければ、戦の際に大変働く人物であると記されている資料も存在します。

新撰組の前身である浪士隊のころに新見錦は、近藤勇・芹沢鴨と並んで局長になった人物です。

それを考えると、ただ酒癖が悪かっただけの人物ではなかったと推測されます。

小説などでは、新見錦は芹沢鴨の取り巻き・腰ぎんちゃくのようなポジションで描かれていますが、実際にはそれをはっきりと示す資料は存在していません。

子母澤寛の「新撰組遺聞」には、壬生の八木邸の八木為三郎の証言として「新見という人物に覚えがない」とされていることから、新見錦は現在でも謎が残る人物です。

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