新撰「組」なのに、なぜ近藤勇は「局長」なのか?

新撰組は「組」なのに、なぜトップの近藤勇が「局長」と呼ばれたのでしょうか。

ここでは、どういう事情で「局長」という役職名が選択されたのかご説明します。

「新撰組・局長」の意味とは

新撰組という名前は勝手に自ら名乗ったものではなく、壬生浪士組が功績を上げた時点で幕府を通じて朝廷から賜ったものです。

新撰組という名前になってからは、会津藩預かりとなり幕府の指揮下に置かれました。

幕府の体制の中では、会津藩の指揮下に置かれた新撰組は下部組織としての「局」という扱いになったのです。

壬生屯所を「新撰組」という名の部署・事務所とした、なのでその長の近藤勇を局長と呼んだとされています。

しかし、会津藩の記録などには近藤勇や芹沢鴨らを「隊長」と称しています。

壬生の旧前川邸に残された近藤勇直筆の落書きにも「会津新撰組隊長・近藤勇」と書かれています。

このようなことから、「局長」も「隊長」もどちらも間違いではなく、両方使用されていたのではないかと思われます。

また、幕府内での正式名称が「局長」で、仲間内では明確な決まりはなく、その時に応じて「隊長」「組長」などと称していたという推測も成り立ちます。

江戸時代の幕府の組織について

江戸時代には、幕府の組織の「長官」は普通「頭」といい、一般的にはその組織を「組」と呼んでいました。

そしてその「組」の長を「組長」とはいわず「組頭」「番頭」と呼んでいました。

後の日本軍で軍隊組織の単位名が「隊」となり、その指揮者を「隊長」と呼ぶようになりますが、これは江戸時代にはありませんでした。

坂本龍馬が結成した「海援隊」が、初の使用例で、以後明治時代になって「隊」という名前で組織を呼ぶようになりました。

新撰組の「局・局長」の起源は、中世から宮中や江戸城大奥などの独立した個人の事務所を「局」と称したことから由来するという説があります。

幕府は会津藩預かりの新撰組は独立した「局」とみなして、そのトップを「局長」と称したと考えられます。

なお、江戸時代には組織名に「長」をつけてトップを表す習慣はありませんでしたが、幕末期になって西洋式の制度を取り入れて「長」をつけたとされています。

「局長」の由来、その他の説

なぜ近藤勇が「局長」と称したのか、確実な理由が伝えられていないだけに、現在でも諸説が飛び交っています。

新撰組の中には組長が数人存在しており、それをまとめたのが局長だったという、もっとも単純な理由もありますが、他にも様々な考察がなされています。

小説家・子母澤寛が旧幕臣からの聞き書きをまとめて執筆した「新撰組始末記」の中で、新撰組隊規を「局中法度」としたために、そこから局長という呼び方が広まったのではないかという説もあります。

また、「組長」という呼称は当時「火消しの組の長」と同じなので、組長と呼ぶと紛らわしいし、あまり強そうな響きではなかったので局長とした、という面白い説も存在します。

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