新撰組といえば、浅葱色のダンダラ模様の入った羽織が有名です。
その羽織は本当に浅葱色だったのか?また本物の羽織は残っているのかについてご説明します。
本物は現存するのか?
まず「浅葱色」というのは薄い藍色で、今の感覚でいう水色に近い色です。
新撰組の羽織は浅葱色にダンダラ模様と伝えられていますが、残念ながら本物の羽織は現存していません。
デザインは局長近藤勇が赤穂浪士を尊敬していたことから、赤穂浪士の羽織をもとにして作られたと伝えられています。
赤穂浪士の羽織は黒でしたので、色だけ浅葱色にしたと考えられますが、なぜ浅葱色にしたのかは明らかになっていません。
ただ、浅葱色というのは武士が切腹の時に張った幔幕の色なので、武士としての決意の表れとして浅葱色を選んだという説もあります。
「浅葱色」に関して言えば、本当は「浅黄色(薄い黄色)」だったのではないかという説もあります。
明治初期のころの衣服なので、もしかしたらどこかに本物が眠っていて、発見されることによって長年の謎が解けることを期待します。
浅葱色のダンダラ模様の隊服は、当時どう見られたか?
新撰組の隊服が「浅葱色(水色)のダンダラ模様」と仮定して、その隊服がどのようにみられていたのか?
様々な文献や口伝によると、あまり好意的には見られていなかったとされています。
当時京都では黒縮緬の筒袖の羽織が流行しており、それが粋だとされていました。
京都の人々の感覚では、明るい水色の派手な柄というのは、田舎臭く感じられたという話が多く伝えられています。
新撰組の隊士の中でもこの隊服はあまり評判はよくなく、隊服での巡回が終わるとすぐに脱いで遊びに行く隊士もいたとされています。
そしてこの隊服を着用していた期間も、ほぼ一年ほどでとても短かったともいわれています。
池田屋事件の時はこの隊服を着用していたという証言がありますが、その後は黒ずくめの隊服に代わったという説が有力です。
ちなみにこの羽織を作ったころの新撰組は資金不足で、両替商の平野屋に借金してこの羽織を発注しました。
作ったのは大文字呉服店、現在の大丸と言われていますが、これに関しては諸説存在します。
隊旗・袖章の色とデザインは?
浅葱色の羽織と同じくらい有名なのは、赤地に金字・白字で「誠」を染め抜いた隊旗と袖章です。
隊旗と袖章も隊服と同じように、ダンダラ模様があしらわれています。
しかし、隊旗に関しては様々な証言が残っており、必ずしもダンダラ模様があしらわれていなかったものも存在するとされています。
また書かれていた文字も、新撰組の前身である壬生浪士隊のころには「誠」ではなく「忠誠」と書かれていたとの説があります。
そして色にも意味が込められており、赤は嘘偽りのない赤心を、白は純な心をあらわしているとされています。
袖章とは、新撰組が隊士達を識別するために袖につけた布のことです。
この袖章は、函館五稜郭での戊辰戦争最後の戦いの際に隊士達がつけていたもので、土方歳三資料館や京都の霊山博物館などに複数現存しています。