切れ者だった故に粛正された伊東甲子太郎とはどんな人物?子孫は?

伊東甲子太郎とは、新撰組に途中入隊し、後に近藤勇らに粛清された人物です。

ここでは伊東甲子太郎とはどんな人物だったのか、そして子孫についてご紹介します。

容姿端麗で文武両道の伊東甲子太郎

小説やドラマなどの影響で、伊東甲子太郎は「裏切者・策士」という扱いを受けていますが、実際の伊東甲子太郎はそのような人物ではなかったといわれています。

容姿端麗であったうえに話がうまく、剣の腕も確かで人望もあったという優れた人物でした。

伊東甲子太郎は江戸で北辰一刀流を学び、道場師範の伊東誠一郎の婿養子に入り道場主となります。

藤堂平助の仲介により新撰組に入隊した伊東甲子太郎は、その才を見込まれて参謀および文学師範となりました。

これまで山南敬助が務めていた総長よりも格上の参謀に就任した伊東甲子太郎は、近藤勇らに期待・信頼されていた人物でした。

思想の違いによって新撰組を脱退した伊東甲子太郎

伊東甲子太郎の思想は「攘夷」で、それは近藤勇ら新撰組と共通するところでした。

しかし近藤勇の目的が江戸幕府の武士になるという「佐幕派」だったことに対して、伊東甲子太郎は「勤王」そして倒幕派という考え方でした。

そして次第に思想がぶつかり合って、新撰組は二つに分裂してしまいます。

伊東甲子太郎は、薩摩藩の動向を探索することと、孝明天皇陵を守る
ことを目的に「御陵衛士」を結成しましたが、その時点では新撰組と敵対勢力になったわけではありませんでした。

御陵衛士での伊東甲子太郎は、リーダーシップを発揮しますが、決して偉そうにせずに「部下」ではなく「同士」として隊士達を導いたと伝えられています。

新撰組目線での小説やドラマでは、どうしても伊東甲子太郎を裏切者扱いしてしまいがちですが、ドラマチックな展開にするためにやむを得ずそうしたと考えられるのです。

伊東甲子太郎暗殺(油小路事件)と子孫について

慶応3年11月18日、伊東甲子太郎は近藤勇の妾宅に呼ばれて接待を受けた後、京都油小路の本光寺前で、新撰組隊士達に襲われて暗殺されました。

暗殺の理由は、近藤勇らが裏切者を粛清した、または伊東甲子太郎が近藤勇ら新撰組を狙っているという情報が新撰組に入ったからともされています。

そして伊東甲子太郎の遺体はしばらく放置され、回収に来た御陵衛士たちも粛清されました。

その一か月後、油小路事件の生き残りの御陵衛士は、二条城からの帰りの近藤勇を報復として狙撃し、右肩に重傷を負わせました。

伊東甲子太郎にはみつという妻がおり、えいという娘がいたとされていますが、うめという妻がおり子供はなく後に離縁したという説もあり、現在でもはっきりしていません。

伊東甲子太郎の嫡流のご子孫は存在しないとされていますが、伊東甲子太郎の実弟で新撰組隊士・鈴木三樹三郎のご子孫は健在で、茨城県にお住まいです。

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