芹沢鴨の壮絶な最後とは?暗殺者はいったい誰だったのか?

芹沢鴨は、新撰組の前身である壬生浪士組に参加し、新撰組では筆頭局長を務めたほどの人物です。

後に芹沢鴨は、新撰組隊規に背いたとして新撰組隊士らによって粛清されました。

ここではその芹沢鴨がどのような経緯で暗殺されたのかについてご説明します。

芹沢鴨という人物について

芹沢鴨は、近藤勇らと共に江戸で結成された浪士組として京都へ向かい、新撰組の前身である壬生浪士組を結成しました。

新撰組局長としては近藤勇が有名ですが、実は近藤勇・芹沢鴨・新見錦の三人が局長を務めており、芹沢鴨が筆頭局長でした。

芹沢鴨という人物は、実に剛毅で悪く言えば乱暴者だったと伝えられています。

すれ違っただけの力士に因縁をつけ乱闘になったり、懸想していた芸妓が振り向かなかったことに腹を立てて、店に乗り込んで破壊するなど、数多くの狼藉を行ったとされています。

また酒癖も悪く酒乱だったことや、軍資金が足りないとして商家から恐喝まがいの資金調達をしたなどが原因で、新撰組隊規違反として粛清されることになります。

しかし芹沢鴨は、子供達に面白い絵を描いてあげたりと、陽気でおどけた一面もあったとされています。

また、世話になった八木家の娘が夭折した時には、芹沢と近藤が進んで葬儀を手伝うという律義さを持ち合わせた人物で、ある時は貧しい者たちのために豪商らを懲らしめたなどという逸話も残っています。

芹沢鴨・暗殺

芹沢鴨の傍若無人な行動に対して、朝廷から芹沢鴨の逮捕命令が出ました。

それを受けた会津藩は秘密裏に近藤勇らに芹沢鴨暗殺を示唆したとされています。

文久3年(1863年)9月16日、壬生の八木邸にて、愛妾のお梅と寝ていたところを襲撃され暗殺されました。

当時はこの暗殺は長州によるものと発表されましたが、新撰組の生き残りである永倉新八らの証言によって、明治になってからこの暗殺が新撰組による粛清だと明らかになりました。

芹沢鴨らが芸妓と八木邸で酒宴をした後そのまま就寝しているところを、近藤勇派の隊士達が様子を確認し襲撃した、というのが真相でした。

そして後日、近藤勇が主となり芹沢鴨の告別式が盛大に執り行われたと伝えられています。

暗殺の背景に関する様々な説

会津藩が新撰組に示唆して芹沢鴨暗殺を決行させたという説が一般的ですが、その背景には様々な理由があげられています。

当時近藤勇派と芹沢鴨派が対立していたことから、近藤勇が芹沢鴨を排除したという説も囁かれています。

また最近では、芹沢鴨が暗殺される直前に、攘夷派だった有栖川宮家に奉公を申し出ていたことが、宮内庁所蔵の「有栖川宮家日記」によって明らかにされました。

その芹沢鴨の行動が会津藩を無視したものであったことから、会津藩の怒りを買ったとの理由もあげられています。

また、暗殺決行の日も墓碑に基づき9月18日とされていますが、様々な風説書によって16日だったのではないかともされています。

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