新撰組の伊東甲子太郎は、近藤勇らと意見を異にして新撰組を離れ、その後暗殺された人物です。
ここではその伊東甲子太郎が暗殺後どうされたか、そして一度埋葬された後、改葬された経緯についてご紹介します。
油小路事件・伊東甲子太郎暗殺
伊東甲子太郎は、新撰組の参謀および軍学師範として活躍、後に近藤勇らと思想を異にし、御陵衛士となって薩摩藩の動向探索や御陵の警備を行いました。
伊東甲子太郎はしばしば「新撰組を裏切った策士」のような扱いを受けていますが、実際の伊東甲子太郎は坂本龍馬と似た思考を持っており、日本の行く末を真剣に考えていた人物の一人でした。
慶応3年11月18日、近藤勇の招待で近藤の妾宅に呼ばれ、酔って帰途についた伊東甲子太郎を、油小路・本光寺前で新撰組隊士達が襲い暗殺した事件、これが油小路事件です。
新撰組によって伊東甲子太郎の遺体はそのまま路上に放置され、他の御陵衛士たちをおびき寄せる囮とされました。
後に新撰組と御陵衛士との戦闘になり、伊東甲子太郎と共に新撰組を抜けた藤堂平助らが斬られました。
新撰組がなぜ伊東甲子太郎を暗殺したのかについては諸説あります。
一つは、伊東甲子太郎が近藤勇を暗殺するという計画があったことを、新撰組がかぎつけたのが理由だといわれています。
また、御陵衛士が幕府と敵対関係にあった長州藩に対して、寛大な処分を要求した建白書を提出し、それに対して近藤勇が怒ったからとも伝えられています。
その時に出動した可能性のある新撰組は、近藤勇を除く幹部ら17人以上でした。
新撰組によって仮埋葬された伊東甲子太郎
遺体を放置した理由として、囮として遺体を放置したというのではなく、伊東甲子太郎は御陵衛士よりも新撰組の方が関りが深いので、自分たちが葬るので仲間を待っている、と新撰組が主張したという説もあります。
そして遺体は4日後に、新撰組によって屯所に引き取られ、壬生の光縁寺に仮埋葬されました。
油小路事件で逃げ延びた御陵衛士たちは、今出川の薩摩藩邸にかくまわれたとも、たまたま逃げ込んだところが薩摩藩邸だったともいわれています。
そしてこの時に「新撰組は坂本龍馬を暗殺する計画を立てている」と薩摩藩士に告げたことから、龍馬暗殺が近藤勇率いる新撰組の仕業と決めつけられた大きな理由となった、という説もあります。
丁寧に弔われ、改葬された伊東甲子太郎
伊東甲子太郎の遺体は、新撰組が京都を離れた後の慶応4年に、御陵衛士によって泉涌寺塔頭戒光寺に改葬されました。
これは伊東甲子太郎が生前に、万が一の時には戒光寺に埋葬してほしいとの希望があったからだとされます。
戒光寺の院代によれば、葬式には300人以上の人々が集まり、大名にも珍しいほどの弔いだったと伝えられています。
また人々は、死後3ヶ月も経つのにきれいなままの伊東甲子太郎らの遺体を見て「勇者の一念」と感心したという逸話も残っています。