現存する置屋「輪違屋」、輪違屋の芸妓との諍いが芹沢鴨の暗殺の発端に?

京都市下京区の花街、島原の置屋兼揚屋である「輪違屋」は、新撰組と縁の深い茶屋です。

ここでは、芹沢鴨の暗殺と輪違屋との興味深い関係についてご紹介します。

浅田次郎の小説「輪違屋糸里」

2004年に刊行された浅田次郎の「輪違屋糸里」は、新撰組筆頭局長・芹沢鴨暗殺の際に居合わせ、難を逃れた芸妓の糸里を主人公にした小説です。

この小説は京都の芸妓たちの目線で芹沢暗殺事件を描いた作品となっており、ドラマ化や映画化もされています。

「輪違屋糸里」はフィクションではありますが、新撰組と京都の芸妓たちとの関係など、新撰組を別の視点で見ることができる興味深い小説です。

粛清される以前の芹沢鴨の行状や、新撰組隊士達の様子なども鮮明に描かれており、芹沢鴨の粛正に至るまでの過程や感情なども詳しく述べられています。

輪違屋と芹沢鴨暗殺との関係

芹沢鴨は、新撰組の筆頭局長でありましたが、乱暴狼藉が過ぎて新撰組の内部の者によって粛清されました。

暗殺当日、芹沢鴨は壬生の八木邸で泥酔して、愛人であるお梅と同衾しているところを襲われ、近藤派の新撰組隊士達に斬られました。

その時芹沢派である平山五郎は同室にいたため同時に粛清されたのですが、別室にいた平間重助は一緒にいた芸妓・糸里と共に逃げることができました。

史実としては、逃げた平間重助と糸里、そして平山五郎と一緒にいた芸妓・吉栄の3人の後日談は残っていません。

そして平間重助と一緒にいた糸里の所属が輪違屋だったことから、浅田次郎の小説が生まれました。

史実としては芹沢鴨の暗殺と輪違屋とは直接の関係はありません。

しかし、花街の置屋の芸妓たちからの女性目線で描かれた新選組は、もう一つの幕末史として興味深いものがあります。

輪違屋について

輪違屋は、置屋として創業当時は「養花楼」という名でした。

置屋というのは、芸妓や遊女を抱え、料亭などの客の要求に応じて女性を派遣する商売です。

お茶屋と兼業を始めたのは明治5年(1872年)で、かつてはたくさんの芸妓を抱えていましたが現在では太夫のみを抱えています。

ここは「観覧謝絶」という札が掲げてあり、いわゆる一見さんお断りの店になっています。

輪違屋の1階には近藤勇直筆の屏風が、また2階には桂小五郎(木戸孝允)の書いた掛け軸があり、襖には当時の太夫が書いた手紙が貼られているなど、歴史的価値のあるものが多数存在します。

また、浅田次郎の輪違屋糸里の主人公糸里は、「維新の名花」とされた桜木太夫をモデルにしたとされています。

桜木太夫は桂小五郎や伊藤博文の愛妾となった、実在の人物だといわれています。

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